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電車に棲む人々(1)

●なぜか「記者が記者で記者に記者した」の記者に化けたわたし

 かくして(どうしたのか、詳しい話は省略。なんでもこうやってごまかしてしまえるのが日本語の醍醐味ってもんだ)、わたしは今神奈川の空の下にいる。ここで、なぜか「記者」という名前の職業についている。
 まったく無自覚のままであった。気がつけば、手には「記者 岩田美加」という名刺が握られていたのだ。それまで、わたしは自分を「フリーライター」だと信じていた。ある日突然手渡されたこの名刺を眺め、つくづくと「ああ、どうやらわたしの職業は変わってしまったらしい」と実感したのは、この仕事を始めて一ヶ月も過ぎたあたりだった。このあたりの顛末は、また別の機会に書かせていただくことにしよう。
 記者は、ライターとはちょっと違う。どう違うのか説明しよう。ライターは、「主に」家の中にいて、必要に応じて外へ売り込みに出たり、データを集めに出かけたりする。こんな暑い夏には、クーラーのきいた部屋の中で執筆三昧だと、知り合いのライターも言っていた。ところが、記者というのは「主に」家の外に出て、走り回っていたりする。仕事を10だと考えると、取材が8で執筆が2。相手の声を聞いてからでないと、始まらない仕事である。暑い夏に記者という仕事を始めてしまったわたしは、「失敗かも」とかつぶやきつつ毎日暑い都心に飛び出していく。もちろん、取材相手と対面する頃には汗でメークなどあとかたもない状態なので、日焼けしてしょうがない。
 肉体労働である。「都会のフリーライター」というスマートかつおしゃれなイメージはどこへやら。これはまさに肉体労働。間違いなく。しかし、こんな誤算も跳ね飛ばすほどの魅力が、記者という仕事にはあった。おそらく、これを「魅力」と感じる人は少ないだろう。が、現実わたしはこれがあるからこそ、暑くつらい肉体労働の日々を耐えることができたのだ。その魅力とは、「電車」であった。
 電車は、かつてわたしが愛した職場である「薬局」が提供してくれるのと同じ、いやそれ以上の人間観察のチャンスを与えてくれる。ほぼ毎日何度も電車に乗るので、いろんな時間帯にいろんな電車を利用するいろんな人種を見る機会に恵まれるのだ。これは、マンウォッチングを生業とする人間にはたまらない。

●初めてのナンパ

 では、まずシリーズ最初の景気づけとして、初めて電車でナンパされた話をしよう。そう、わたしはナンパ未経験者である。花の大学時代を東京で過ごし、夜遊びしたい放題、盛り場歩きたい放題でナンパ未経験。これは悲しかった。死ぬまでに一度ナンパされたいというのが、わたしの悲願であった。これが、この年(いくつだ、なんて突っ込みはなし)になって成就されたのだから自慢したい気持ちもわかっていただきたい。実は、「聞いて聞いて」状態なのである。
 初めてナンパしてくれた男は、外人であった。浅黒い肌は、なんとなくアジアっぽいイメージ。年の頃は、20代後半か。その時、わたしは相鉄線の遅い電車に乗っていた。車内には人気がなかった。広い座席の真ん中に陣取り、いつものように熱心にHP100LXをいじっていた。ふと気がつくと、隣に男性が座っていた。
「ちょっといいですか〜? 今、何時?」
 妙な発音ではあるが、一応日本語だ。これだけ熱心に日本語を勉強してくれる外人には、親切にしてあげたくもなる。
「えっと、12時過ぎですね」
 にっこり微笑んでこたえた。すると、
「あなた、どこに住んでる?」
 と聞いてくる。黙っていると、
「ねえ、年いくつ?」
 ときた。ちょっとむかっときた。わたしに年を聞くたあ、いい度胸じゃないの。
「教えません」
 怒った顔でこたえた。しかし、敵はまったくひるむ様子はない。
「明日新宿に行きましょう。心配ない。わたしはヨハン、25才の留学生ね」
 と、なんの脈略もなく自己紹介である。
「あなたの名前も教えて」
 名乗られたらこたえなくてはいけない。武士の掟である。
「岩田美加です」
「美加さん、明日新宿に一緒に行きましょう」
「いやです」
「なぜですか」
 ヨハン食い下がる。
「なんでだめですか。わたしが外人だから?」
 そういう問題じゃないと思う、と心の中でひとりごと。
「あなたもう28才。もう大人。恋愛自由ね。おとうさん、おかあさん関係ない」
 年を言った覚えはないが、とりあえず若くいってもらえたので気分をよくする。女って、いや、わたしって馬鹿。
 それにしても、おとうさんおかあさんってなんだ。恋愛自由だからって、ヨハンと恋愛しなくちゃいけないって法はなかろう。
「そうじゃなくて、わたしは行きたくないんです」
「電話番号教えて」
 くじけない奴である。そこは評価しよう。
「あ、降りなくちゃ」
 タイミングよく、わたしの降りるべき駅に着いた。あとは、後ろを振り向かず飛び降りるだけである。
「じゃあね」
 後ろで扉が閉まる。閉まったことを確認して、そっと後ろを振り向いた。そこには、笑顔で手を振るヨハンがいた。つくづくくじけない奴である。

「あ、そういえば、これ生まれて初めてのナンパかも」
 そう気がついたのは、家のドアを開けてからだった。それにしても、最初のナンパがヨハンってのは……。


◆執筆者後記
 薬局から記者へ。まさに「激変の夏!」である。秋葉原の取材で、暑気あたりで道路にひっくり返ったこともあった。電車の中で座り込み、「どうしたの、ねえどうしたの」と世話好きのおばさまに大騒ぎされたこともあった。しかし、そんな環境の変化にも最近ようやく慣れてきた。これからが本番、どんどん出かけてネタを見つけてくるつもり。