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二人暮らし(1)

 以前「クイックサンド」(*1)というオンラインマガジンで、「電車に棲む人々」という連載を書いていたことがある(*2)。これは、電車の中で見かけたさまざまなキャラクターを描くという企画だった。何回か続けたらネタは簡単に尽きてしまうだろうと思いきや、東京の電車の中には実にいろんな人が乗っていて、書いても書いても書き足りない。ということで、今回このメルマガで続きを書いてみようと思った。最近は特に、世紀末という時代的要素も手伝ってか不思議な方々と出会う確率が高く、モノ書きとしては嬉しい限りである。

 中でも、この前の体験は刺激的だった。思わずかばんの中からHP100LX(私の最愛のPC。手のひらサイズながら、軽快にDOSが動く。実質的には私のメインマシンであるといっても過言ではない…LXについてのコラムは、また後日)を取りだし、記録に走ってしまったほどだ。

 その日は、とある編集部と打ち合わせ方々お昼を食べるという予定が入り(というか、お昼を食べるほうがメインだったりするのだが)、自宅から新宿まで小田急線の普通に乗って出かけた。本当は急行に乗ったほうがずっと速いのだが、混んだ電車は疲れる上に人の観察がとてもやりにくい。という訳で、私はいつもゆっくり時間をかけて普通電車で新宿に出るようにしている。時々眠ってしまって新宿から折り返し、いつの間にやら下北沢だったということもあるが、大抵は1時間弱で到着する。

 彼がその電車に乗りこんだのは、確か千歳船橋あたりだったかと思う。隣の車両に乗り、そこからゆっくりとこちらに向かってきた。携帯電話を耳にあて、大声でなにかしゃべっている。隣の車両まで聞こえてくるのだから、相当大きな声だったのだろう。私は何気なく彼を観察した。彼は、まんまゲンダイの若者といった風情。長い髪を後ろで束ね、真っ白なシャツをジーンズの上からはおっている。一見して不潔感はなく、こざっぱりとした好青年。ルックスはかなり上で、さぞかしおモテになるのだろうなあとおばさんはこっそりヤラシイ推測していた。あの携帯電話の相手はきっと彼女で、彼はきっとデートの時間に遅れそうになって懸命に弁解しているに違いない。私は自分の若い頃にこのシーンを重ね、ふっと微笑を浮かべながら当時の恋人を思い出したりしていた。しかし、次の瞬間。

 彼は私の車両にやってきた。手には相変わらず携帯電話。大声でしゃべり続けている。そこまではよかったのだが、話の内容が想像とは大きく違っていた。というか、こんなの予想できる訳がない。彼は、彼は、ああ、なんということでしょう…
「もしもしドラえもん、もしもしドラえもん、聞こえますか?」
 ドラえもんに電話をかけていたのだ!
 はっ、と顔をあげた。おもしろいもので、同じ車両の人たちも一瞬私と同じ動きをしていた。やっぱりみんな彼の声が気になっていたのだろう。一様に唖然とした表情を浮かべている。
 彼は、そんな視線の中、次の言葉を続けた。
「助けてください、ドラえもん。ポケットの中からなにか出して、僕を助けてください。電車の中でサリンがまかれてしまうんです。ダイオキシンがあちこちに広がっているんです。北極の氷が溶けて、東京は海の底に沈んでしまうんです。助けてください、ドラえもん」

 もう一度車両の中の人たちを見ると、みんな何事もなかったかのようにそれまでと同じ顔に戻り、会話を続けたり本を読んだりしている。もう誰も、唖然として彼を見たりはしない。私ひとりが、相変わらず彼を注目し続けていた。なんでみんな知らん顔できるんだろう。こんなすごい事件、そう滅多に見られないのに。

 彼は、そのまま相変わらずの大声で後を続ける。
「聞こえますか、神様。お願いです、僕を助けてください。このままでは人間はみんな滅びてしまうんです。サリンがまかれて死んでしまうんです。助けてください、クリーミーマミ。変身して僕を助けてください…」
 なんだ、やられた。ここまできて、私はそう確信した。これってあれじゃん、テレビ番組のやらせのやつ。変なことやってびっくりした一般人の反応を撮影し、笑うってやつ。ちぇ、本気でびっくりしてしまったぜ。だってだって、こともあろうに「クリーミーマミ」だよ? こんなせりふ、シナリオライターが作りこんだに間違いないじゃん。素人が思いつく言葉じゃないし。 にこにことテレビ用の笑顔を作りながら、どこかで撮影してるだろうテレビカメラをこっそり探してみた。しかし、そんなものはどこにもなかった。さらに、彼は続ける。
「聞こえますか、オウムの人たち。どうか僕を助けてください。サリンをまいて、助けてください」
 おいおい、話があやしくなってきたぞ。さっきは「サリンがまかれて死んでしまう」っていってたのに、今度は「サリンをまいて助けてください」といっている。わたしは頭の中を疑問符だらけにしたまま、とりあえずHP100LXを取り出して彼のせりふを書きとめておくことにした。どういう結末になるのかはわからないけど、これはかなりおもしろい。
 と、彼は携帯電話を胸ポケットにしまった。どうやら電話は終わったらしい。っていうか、どこにかけてたのアナタ、と聞きたい気持ちでいっぱいの私。
 彼は、さっきより若干小さ目の声で、車両内のみなさんに演説を始める。
「みなさん聞いてください。東京はもう終わりなんですよ。ダイオキシンは蔓延してるし、北極の氷が溶けて、東京は海水の底に沈むんです。みんな死んでしまうんですよ。わかっているんですか、みなさん」
 そのみなさんは、相変わらずおしゃべりを続けたり本を読んだり、全然動じる気配がない。彼が一所懸命演説を繰り返しても、その状態は変わらなかった。聞こえていないはずはないが、ヤツラは一切を無視することに決めたらしい。一心不乱に彼のせりふを記録している私を除いて、すでに彼に興味をもつ人はいないように見えた。

 彼はあきらめたように、次の駅で静かに降りていった。彼がホームに降りて、ドアがしまる。途端、車内には緊張が解けたような雰囲気が流れた。私の隣の男性が、その隣の男性に話しかける。
「なんだったんでしょうかね、彼は」
「ええ、見た感じはきちんとしていたし、おかしいっていう訳じゃなさそうだったけど」
 うん、かっこよかった。ってのは、わたしの心の声。
「なんかのイベントですかね」
「罰ゲームだったのかも」
 なるほど。そういう考え方も確かにある。
「あれじゃないでしょうか。ほら、今は季節も春だから」
「あれって?」
「最近多いんですよ、電波系の方々が」
「電波系って…ああ、なんか電波に操作される人たちね。春先に」
「そうそう。僕が聞いた限りでは、豪徳寺あたりに多いって話だったけど…」
「なるほど…電波なのね、原因は」

 電車は新宿のホームに滑り込んだ。ドアが開き、乗客たちは何事もなかった顔で次々と降りていく。隣に座っていた男性二人も、席をたってゆっくりと降りていった。
 座席に残されたのは私ひとり。LXを手に途方に暮れていた。最後の最後に、こんな大きな謎を残されたんだからたまらない。ねえねえ、電波系ってなんのこと? まさかなすびのことじゃないよね…。


*1:クイックサンドは騒人の前身です。
*2:この作品は、1999年8月「真花のショートノベル&コラム No.3」に掲載されたものです(転載許可済)。