それでも、冠に手はやらない

レビュー&コラム

中学生の頃、社会の先生が「李下に冠を正さず、瓜田に履を納れず」という言葉を教えてくれた。スモモの木の下で冠をかぶり直すと実を盗んでいるように見えるし、瓜畑で靴を履き直すと瓜泥棒に見える。だから、疑われるようなことは最初からするな、という戒めだ。言い回しの細かいところはうろ覚えだけど、この教えだけは、なぜかずっと僕の中に残っている。

残っているどころか、僕はけっこう忠実にこれを守って生きてきた。誤解されそうな場面では先回りして手を引く。疑われるくらいなら、少し損をしてでも身を引く。それが正しさだと思っていた。

でも最近、その前提が足元から崩れていくのを感じる。

李下で、平然と冠を触る人たち

今の世の中を見ていると、みんな平気で李下に立って、堂々と冠をかぶり直している。

SNSにはデマがあふれている。特に災害のときがひどい。インプレッションを稼ぐために、真偽の怪しい情報が、インパクトの強さだけを頼りにどんどん流れてくる。国のトップでさえ、本当か嘘かわからないことを平気で投稿する。疑われることなんて、はなから気にしていない。むしろ、疑われてでも言い切った者が勝つ、という空気すらある。

もっと露骨な話もある。ICC(国際刑事裁判所)の赤根智子所長が、アメリカから制裁を科された。アメリカ兵の戦争犯罪の疑いを捜査することを認めた、というのが理由の一つだという。疑いがあるなら調べる、無実なら問題ない――そういうものじゃないのか、と素朴に思う。なのに、調べること自体をやめさせようと圧力がかかる。李下に立つのを避けるどころか、木の下を調べようとした人の方が叩かれるのだ。かつてなら、真っ先に李下を避けたはずの立場の人たちが、今は平然と、その逆を向いている。

疑われないこと、は正しさだったのか

こうして並べてみて、ふと立ち止まる。

そもそも僕が握りしめてきた「疑われるな」という教えは、本当に正しさの話だったんだろうか。

芥川龍之介の「藪の中」を思い出す。一つの殺しをめぐって、登場人物がそれぞれ食い違う証言をして、真相がとうとうわからないまま終わる話だ。読んだときは、よくできたミステリーとして楽しめた。真実に手が届かないもどかしさすら、物語の仕掛けとして面白かった。でも、いま現実の藪はもっと深い。物語なら「わからない」を味わえるけれど、現実で本当のことが見えないのは、ただ怖い。

その怖い藪の中で、ふと思う。「疑われないようにする」って、本当はそんなに大事なことだったんだろうか。冠に手をやらないでいても、それで自分が潔白になるわけじゃない。ただ「盗んでいるように見えない」だけで、真実そのものは何ひとつ変わらない。だとしたら、僕がずっと守ってきたのは、正しさというより、人にどう見えるか、という体裁でしかなかったのかもしれない。正しく生きているつもりで、その実、人の目の方をこわがって縮こまっていただけ。李下で堂々と冠を触る人たちは、少なくともその人目には縮こまっていない。

そう気づくと、自分の「正しさ」が、急に頼りなく見えてくる。

それでも、冠に手はやらない

いつだったか、佐藤優さんと池上彰さんの対談で、こんな言葉が出てきた。

「約束はしたけど、守るとは約束していない」

外交ではそういう理屈がまかり通ることがある、という話だったと思う。聞いた瞬間、唖然とした。誠実であろうとする側が馬鹿を見て、平気で裏返す側が得をする。世の中は、どうもそっちに傾いている。

じゃあ、僕も冠に手をやる側に回った方が、賢いんだろうか。疑われるのを気にせず、言い切って、裏返して、取れるだけ取る。たぶんその方が、この時代では割に合う。

それでも、と思う。たぶん僕は、これからも李下では冠に手をやらない。誰も見ていないと知ってしまった今でも、だ。人があまり他人に興味がないのなら、こっそり冠を直したところで、きっと誰にも気づかれない。それでも手をやらないのは、見られているからではなく、見ている自分がいるからだ。ずっと人目に縮こまっていた僕が、最後に気にするのは、たぶん自分の目の方なのだと思う。

もう誰も褒めてはくれないし、正しさの証明にもならない。それでも、そういう自分でいたい、というだけの話だ。

古びた教えを、それでも捨てられずにいる。少なくとも、そうありたいと思えるうちは。

秋葉 けんた

IT系のライティングを担当。 書籍、雑誌、業界誌やWebコンテンツなど、コンシューマからB2Bまで幅広く執筆。また、広告やカタログ、導入事例といった営業支援ツールの制作にも携わる。年間におよそ200件の原稿を執筆。●これまでの主な仕事 PC/周辺機器(CPU/DVD・BD・HD DVD/LCD/プリンタなど)、基幹システム(CRM/ERP/SFA/SOA/帳票など)、ストレージ(SAN/NAS/LTO/SASなど)、セキュリティ(BIOS/UTM/情報漏えい対策/デザスタリカバリ/内部統制・コンプライアンス/ネットワークセキュリティ/メールセキュリティなど)、ネットワーク(KVMスイッチ/グループウェア/サーバ/資産管理/シンクライアント/ホスティングなど)、その他(.NET/BI/カタログ/各種戦略/導入事例/パートナー取材など)…ほか、多数執筆。●連絡先 メール:kenta@office-mica.com

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