排除は、記号の話なのかもしれない

レビュー&コラム

ヘイトスピーチ解消法ができて10年になる、というニュースを先月見た。あわせて、外国人への風当たりが強くなっているという話も出ていた。外国人に対してだけの話だろうか、と最初は思ったんだけど、考えているうちに、案外そうでもない気がしてきた。

県境を越えたら、よそ者になった

コロナ禍のころ、島根のとある道の駅でステッカーを見かけたことがある。「ナンバーは他県だけど、住んでいるのはここです」というようなことが書かれたそれが、普通に商品として売られていて、正直かなり驚いた。他の地域から来た車を露骨に嫌う空気が、あちこちにあった。

これ、外国人の話じゃない。日本人が日本人を排除していた。理由はナンバープレートだけだ。だとすると、問題は「外国人かどうか」よりもっと手前にある気がしてくる。自分の知っている記号と合うか合わないか、その程度のことで、人は簡単によそ者を作り出せるんだと思う。

顔が見えると、記号ではなくなる

正直に言うと、外国人観光客が道をふさぐとか、そういうのが気になっていた時期も僕にはあった。でも最近はあまり気にならない。外国人が減ったということはない。いまも、大きなアタッシュケースを抱えた旅行者はあちこちで見かける。なので理由を考えてみると、単純に慣れたんだと思う。接する機会が増えたから、そんなに気にならなくなった。もしかすると、旅行者は、そういうものだよねということが、自分の中で当たり前としてインストールされたのかもしれない。旅行者だけでなく、外国籍の人も増えている気がする。孫の運動会に行くと、日本国籍じゃなさそうな名前の子がクラスに何人もいる。それが当たり前の世代を見ていると、僕らの世代よりずっとフラットに人と接しているように見える。顔が見えるようになると、「外国人」という記号は、一人ひとりの誰かになっていくんだと思う。

神様が仏様になった国

そもそも日本は、何かを取り込むのがわりと得意な国だったはずだ。神様や仏様もそうだし、怨霊をそのまま神様として祀り上げてしまったりもする。異物をそのまま排除するというより、なんとなく取り込んでしまう土壌が、もとからあるんだと思う。

象徴的なのが、荼枳尼天だと思う。もとはインドの女神で、人の死を見抜いて心臓を食べるという、かなり恐ろしい存在だったらしい。それが仏教に取り込まれると、大日如来に諭されて改心し、守り神になった。さらに日本に伝わると、白い狐にまたがる姿で描かれるようになり、いつの間にか稲荷信仰と一体化していく。今、多くの人が「お稲荷さん」として親しんでいる神様の正体の一部は、もとをたどればインドの女神だったりするわけだ。

荼枳尼天は、個人的にずっと気になっている神様でもある。以前、チベット密教のイベントに行ったとき、荼枳尼天にゆかりのある像が首から骸骨の首飾りを下げていて、それがやけに印象に残っている。稲荷神社の狐の置物からは想像もつかない、もとの荒々しい姿の名残りだったんだと思う。ひとつの神様の中に、これだけ違う顔が重なっている。取り込むというより、いろんなものがそのまま溶け合っている感じに近いのかもしれない。

記号を固定する道具

一方で、気になっていることもある。SNSは、自分が書き込んだことに関連する話題をリコメンドしてくる。それを繰り返していると、自分の考えがどんどん強化されて凝り固まっていく。哲学者のマルクス・ガブリエルが、本かテレビか忘れたけど、たしかそんな話をしていて妙に納得した記憶がある。AIとの対話にも似たところがあって、むしろこっちのほうが自分の発言にピンポイントで返してくる分、思想が固定化されやすい気がする。

怖いのは、そうやって視野が狭くなっていることに、本人はまず気付けないという点だ。ヘイトスピーチをしてしまう人も、自分を排除する側の人間だとは思っていないんじゃないかと思う。狭くなった視野の中では、それが排除ではなく、ただの正しい判断に見えているだけなのかもしれない。

思うことと、口にすること

内心の自由は大事だと思う。誰もが自由に考えていい。日本国憲法にもそう書いてあるらしい。ただ、高校のとき、これを妙な形で思い知らされたことがある。

30年以上前の話だけど、先輩の代の卒業式で、先生たちが国旗を掲揚しなかったことがあった。それがニュースになり、しばらくして学校の周りに街宣車が何台も来るようになった。ある日、校内放送で「生徒は2分で下校しろ」と言われたんだけど、そんなの無理だろうと思っているうちに校舎ごと囲まれるような格好になって、部活も中止になった。校門のところで、街宣車の人たちと警察官がやり合っているのを、僕はただ眺めていた。

先生たちの主張が正しいとか間違ってるとかより、「これは誰のための行為なんだろう」と思っていた。主役だったはずの卒業生も、ただ居合わせただけの下級生だった僕らも、誰も得をしていない気がしたからだ。思うこと自体は誰にも止められない。でも、それを行動にして人前に出した瞬間、それはもう自分だけの話じゃなくなる。巻き込まれる人が出てくる。

ヘイトスピーチも、たぶん同じ構造なんだと思う。何かを怖いと感じたり、よく分からないものを警戒したりすること自体は、責められることじゃない。問題は、その内心をそのまま言葉にして誰かにぶつけた瞬間に生まれるんだろう。記号が合わないと感じることと、それを口に出して誰かを排除することの間には、本当はけっこうな距離があるはずなんだけどな。

排除も、受け入れも、結局は目の前の相手がどれだけ「知っている誰か」に見えるかどうかの話なのかもしれない。昔の日本人は、そうやって知らないものを知っているものに変えながら取り込んできたんだろうけど、いまの僕らも同じようにできているかは、正直よく分からない。

秋葉 けんた

秋葉 けんた

IT系のライティングを担当。 書籍、雑誌、業界誌やWebコンテンツなど、コンシューマからB2Bまで幅広く執筆。また、広告やカタログ、導入事例といった営業支援ツールの制作にも携わる。年間におよそ200件の原稿を執筆。●これまでの主な仕事 PC/周辺機器(CPU/DVD・BD・HD DVD/LCD/プリンタなど)、基幹システム(CRM/ERP/SFA/SOA/帳票など)、ストレージ(SAN/NAS/LTO/SASなど)、セキュリティ(BIOS/UTM/情報漏えい対策/デザスタリカバリ/内部統制・コンプライアンス/ネットワークセキュリティ/メールセキュリティなど)、ネットワーク(KVMスイッチ/グループウェア/サーバ/資産管理/シンクライアント/ホスティングなど)、その他(.NET/BI/カタログ/各種戦略/導入事例/パートナー取材など)…ほか、多数執筆。●連絡先 メール:kenta@office-mica.com

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