妻が入院していた。深刻な病気ではなかったのだけど、面会に行っても、病室というのはどうにも間が持たない。することもなく、ただ座っている時間が多かった。そんなある日、息子が漫画を全巻抱えてやってきた。入院中の母さんが退屈しているだろうから、というわけだ。『鋼の錬金術師』。名作だよ、と息子は言う。僕はその一冊を、なんとなく手にとった。名前だけは知っていて、読んだことはなかった。そうして読みはじめて、正直、けっこう驚いた。
西洋の錬金術なのに、行き着く先は華厳だった
何に驚いたかというと、これは仏教の——それも華厳の考え方じゃないか、と思ったからだ。
華厳に、事事無礙法界という言葉がある。ものものしいけれど、中身は案外シンプルで、世界のすべては個別にぽつんと在るのではなく、互いに入り込み、影響しあって成り立っている、という見方だ。よく引かれるのがインドラの網という比喩で、結び目ごとに宝珠が吊るされた巨大な網を思い浮かべてほしい。どの珠にも、ほかのすべての珠が映り込んでいる。一つの中に全部があり、全部の中に一つがある。
『鋼の錬金術師』には「一は全、全は一」という言葉が出てくる。師匠が主人公たちに叩き込む、錬金術の根っこにある考え方だ。個は世界の流れの一部で、その世界もまた個の中にある。これは華厳でいう「一即一切、一切即一」と、ほとんど同じことを言っている。西洋の錬金術を題材にしているのに、突きつめると東洋に行き着くのが、なんだか不思議だった。
素材はそろっているのに、人にはならない
読み進めていて、もう一つ引っかかったことがある。この物語では、死んだ人間を錬成でよみがえらせようとして、失敗する。材料はそろっている。人体を構成する元素も、その分量も、全部わかっている。それでも、人は戻ってこない。
これを読んだとき、父が亡くなったときのことを思い出した。
当たり前の話だが、父の体はちゃんとそこにあった。骨も、タンパク質も、水分も、ついさっきまで生きていた体そのものが、目の前にある。なのに、それはもう父ではなかった。材料は何ひとつ減っていないのに、人ではなくなっている。
なんでだろう、とずっと思っている。生きているのと死んでいるのとの違いは、いったいどこにあるんだろう。物質としては、何も変わっていないのに。たぶん、魂とでも呼ぶしかない何かが、あるかないか。その一点なんじゃないか、という気がしている。証明はできないけれど。
死んで、たぶん世界に溶けた
ただ、これも変な話なんだけど、父が完全にいなくなった、という感じもしなかった。
うまく言えないが、父はどこか世界の側に溶けていって、まだそのへんにいる、みたいな感覚がずっとある。魂がなくなったから死んだ、と言ったそばから、じゃあその魂はどこへ消えたんだ、まさか無になったわけでもないだろう、とも思う。
さっきのインドラの網でいえば、一つひとつの珠は、ほかのすべての珠を映しあって、はじめて在る。だとすれば、珠が一つ消えても、それを映していた無数の珠のほうに、その姿はまだ残っているはずだ。個がぷつりと無くなるというより、網の全体に散らばって溶けていく、という感じに近い。『鋼の錬金術師』も、最後は「人はひとりでは生きられない」というあたりに着地する。物質を自在にあやつる話として始まったのに、最後は人を関係の中に置き直す。父が世界に溶けた気がするのも、案外それと同じことなのかもしれない。個体としては終わっても、関係の網の目としては、まだほどけていない。
妻はもう退院して、いつもの部屋にいる。最後の巻を読み終えて、そっと本を積み直した。となりの部屋から、妻がテレビを見て笑っている声が聞こえる。ごく普通の、なんでもない午後だった。