叔母から電話がかかってきた。用事は別のことだったのに、そのうち親戚の近況の話になった。誰それが入院した、誰それは足が悪くなった、そちらのお義父さんはどう。気づけば全部が年寄りの話だった。みんな歳をとっている。当たり前なのに、電話で並べられると急にそう思う。
そのなかに、親戚の介護の話が混ざっていた。「介護は、姪がやってるから」と。ワントーンも変わらなかった。そのまま次の話題に移っていった。
僕もそこを、そのまま聞き流した。引っかかったのは何日か経ってからで、それも風呂に入っているときだった。
声のトーンが変わらなかったこと
誰が悪いわけでもない。叔母は嘘を言っていない。介護は姪がしている。事実だ。
しばらくして、妻が友達から聞いてきた話も似ていた。介護をしているのは結婚して家を出たお姉さんで、弟のほうが土地を継ぐことになっているという。家にいるのは弟で、通っているのは姉だ。
継ぐのは、動かないものだ。家と、その下の土地。何十年もそこにあって、これからもそこにある。一方で、やっている、というのは毎日のことだ。朝があって、昼があって、夜があって、また朝が来る。片方は動かず、片方は終わらない。それが「役割分担」という顔をして並んでいる。
不思議なのは、この手の話に出てくるのがだいたい姉か妹か、娘か姪だということだ。誰かが「お前がやれ」と命じたわけでもないのに、気がついたらそうなっている。「ケアが“愛情”と呼ばれた瞬間に労働として数えられなくなる」という話をどこかで読んだ。誰が言ったのかは思い出せないのに、その一文だけがずっと残っている。
数えられないものは、見えない。ここまではよく聞く話だ。
僕が引っかかったのは、もう少し手前だった。あの電話の一言に、僕が何も感じなかったことのほうだ。
空気に礼を言う人はいない
なぜ何も感じなかったのか。たぶん、僕にとってそれが「普通の音」だったからだ。入院した、足が悪くなった、介護している。全部が同じ調子で並んでいて、僕もそれを同じ調子で聞いていた。
やってもらうことに人は慣れる。最初は「ありがとう」と思っている。何度目かで口に出さなくなる。そのうち、これって普通なんじゃね、と思い始める。悪意はない。感謝が減るというより、感謝の対象として認識されなくなる、という方が近い。愛情の名前がついたものは数えられない、というのはたぶんそういうことで、数えないものに人は礼を言わない。空気に「ありがとう」と言う人はいない。
たちが悪いのは、慣れは伝染するということだ。当事者が慣れ、それを見ている家族が慣れ、話を聞いた叔母が慣れ、受話器のこちら側の僕が慣れる。慣れは家の中で完結しない。電話線を通って、聞いた人間にまで配られる。
申請しないと、支援されない
その姪も、家を出た姉も、たぶん誰にも言っていない。言わないというより、言うようなことだと思っていない。家のことだから、家でやる。
ヤングケアラーの話も、同じ場所につながっている気がする。子どもが親や祖父母の世話をしていて、それを言わない。でも自分の家だけでやろうとすると、はまる。本当は窓口があって、支援があって、相談できる大人がいるはずなんだけど、たいていの支援は申請しないと始まらない。
ここが不思議なところで、申請するには、その支援があると知っていなければならない。知らない人は申請できない。申請できない人には支援が届かない。届かないから、そういうものがあると知る機会もない。助けが必要な人ほど知る余裕がなくて、余裕がある人ほど知っている。順番が逆になっている気がするんだけど、これってどうにかならないものなのかな。
しかも、知っている人間はけっこういるはずなのだ。叔母とか、その電話を受けている僕とか。ただ、言う必要を感じていない。話として聞くぶんには、誰も困っていないように聞こえるからだ。困っているのは現場のほうで、電話にはその音が入っていない。
僕の周りにも、空気がいる
風呂で思ったのは、ここからだ。
この話は家の中のことだけじゃない。僕の仕事だってそうだ。マイカの仕事も、それ以外の仕事も、僕ひとりでは一行も出ていかない。原稿を受け取ってくれる人がいて、直してくれる人がいて、出す形にしてくれる人がいて、それを読んでくれる人がいる。全部誰かがやっている。全部、僕ひとりではやっていない。小さなプロダクションだから、その誰かの顔はひとりずつ全部わかる。名前も、声も、癖も知っている。歯車じゃない。生身の人だ。
最初はいちいちありがたかったはずなのだ。それがいつからか、当たり前になっていないか。締切に間に合った、公開された、それで終わりにしていないか。ありがとうと言わなくなった瞬間は覚えていない。覚えていないから、たぶん本当に忘れている。
「姪がやってるから」と言った人と、僕の距離はそんなに離れていない。結局、見たくないことに蓋をしてしまっているだけかもしれない。そう考えると、あれは遠くの誰かの話じゃなくて、僕の話なのかもしれない。
大好きな人たちだ。それだけは確かなのに、好きだから言わなくなる、という順番があり得るのが厄介なところで。愛情の名前がついたものは数えられない、というのはたぶんそういうことなんだと思う。
誰も決めないまま、誰かが始める
だから、これは誰かを責める話ではない。
「普通」という言葉は便利だ。便利すぎる。あれは、誰かが黙って引き受けているという事実をまるごと隠す蓋みたいなもので、しかも蓋をした側は蓋をしたことを覚えていない。覚えていないから、悪意も生まれない。悪意がないから、誰も咎めない。
厄介なのは、蓋の上は座り心地がいいということだ。僕はあの電話を、蓋の上に座って受けていた。元気そうでよかった、くらいの気持ちで。「姪御さんは大変じゃないの?」の一言が出てこなかった。出てこなかったというより、思いつきもしなかった。
うちの義父も、いずれそういう話になるんだと思う。そのとき誰がやるのか。家族会議が開かれて、誰かが手を挙げる、みたいなことにはたぶんならない。誰も決めない。決めないまま、誰かが始める。始まってしまえば、それはもう「そういうことになっている」になる。介護は決まるものじゃなくて、いつのまにか発生しているものなんじゃないか。
次に叔母から電話がかかってきたとき、僕はその一言を言えるだろうか。たぶん言えない。せめて、その次の日には誰かに一回、ありがとうと言えるくらいでいたい。それくらいしか思いつかない。
風呂の湯が、少しぬるくなっていた。