友人と家族に勧められ、『鋼の錬金術師』のコミックを全巻読破し、勢い余って原作準拠のアニメ版も最後まで見てしまった。見終わった今、本作が連載終了から時を経てもなお「名作」と絶賛されている理由がよくわかった。なぜここまで多くの人から支持されているのか。今回は、私が特に印象的だったポイントと、それを支える見事な構成について語ってみたいと思う。
なお、この記事にはネタバレが含まれる。まだ読んだことがない、見たことがないという人は、今すぐブラウザを閉じてほしい。できれば事前情報なしで、すっぴんのまま見た方が絶対におもしろいと思うからだ。そしてコミックを読んだ後、あるいはアニメを見た後、またここに戻ってきてほしい。
ということで、このあと本編を始める。すでに読んだ/見たという人は、このままスクロールして続きを読んでください。
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この作品の冒頭から、絶対のルールとして示されているのが「等価交換」だ。
「なにかを得るためには、それと同等の対価が必要である」
この法則は、とくに錬金術師たちのあいだに強く根づいている。そしてそのルールに従った結果、エドとアルはさまざまなものを失うことになる。
私たちは、このルールにそれほど違和感をもたない。とても合理的だし、「実際、そうだよね」とも思う。しかし、本当にそうだろうか。エドとアルの旅は、「等価交換」というルールのもとで行われる理不尽な行為や、受け入れがたい結果に直面する旅でもあった。理屈としては筋が通っている。しかし、感情としては受け入れられない。そういうことが、作中では何度も起きる。
そこで思い出すのが、エドとアルが無人島での修行中に向き合った「一は全、全は一」という言葉だ。彼らが出した答えは、「全は世界、一は俺」だった。これは「俺は世界だ!」という意味ではない。一が集まって全ができ、全のなかに一がある。自分は世界から切り離された存在ではなく、万物の循環のなかにいる。そのことを、彼らが理解したということだと思う。
この言葉にたどり着く前、彼らは食物連鎖を見ていた。生き物が生き物を食べ、死んだものがまた別の命を支える。その循環を目の当たりにしたからこそ、「一は全、全は一」という言葉を身体で理解できたのだろう。
「世界は大きな流れであり、自分はそのなかの一つにすぎない」
私たちは、世界という大きな循環のなかに生かされている。この本質を掴んだからこそ、兄弟はその後、「10もらったら、自分の1を上乗せして11にして次の人に返す」という新しいルールを見つけたのだと思う。
これにより、等価交換だけでは届かない世界を実現する。与えられたものに、自分の意思で少しだけプラスして次に回す。その小さな上乗せによって、世界は少しずつ豊かになっていくのだ。
もうひとつ印象的だったのは、構成の無駄のなさと、伏線回収の見事さだった。
具体的に書くと、それこそ盛大なネタバレになってしまうので少し抑えめに言うが、エドの身体がなぜ小さかったのか、なぜ各地で暴動が起きていたのか、シン国のメイが感じていた違和感は何だったのか。読んでいるときにはスルーしてしまいそうな小さな仕掛けが、実はきちんと伏線になっていたことに何度も驚かされた。
さらに、七つの大罪の名をもつホムンクルスたちの最期もお見事だった。真理の扉を開いた者が失うものと同じように、彼らにもまた、それぞれの本質にふさわしい、とてもシニカルな結末が待っている。なかでもエンヴィーの最期は胸が痛み、グリードの爽やかな最期とは対照的だった。
最初に書いたように、私は人から勧められてこの作品を読み始めたが、コミックとアニメをすべて見終えた今、しみじみ「見てよかった」と感じている。そして、勧めてくれた友人と家族にとても感謝している。「これは絶対に見た方がいいよ」と言われて手渡されたこの経験を、エドとアルが発見した「少し上乗せして返す」ルールにならって、私も少しだけ上乗せして次の人に渡したい。そう思い、この記事を書いた。
もしこの記事をここまで読んでくれた人のなかに、まだ『鋼の錬金術師』を読んでいない/見ていないという人がいたら(あんなにブラウザを閉じてと頼んだのに!笑)今からすぐに読んで、見てほしい。大丈夫。大事なところはネタバレしていないので、ちゃんと楽しめるはずだ。
そしてぜひ、その感動を次の人へ。