なぜこれほど心が乱れたのか、自分でもすぐには分からなかった。戦争や暴力のニュースは珍しくない。それでも今回は、胸の奥に鈍い衝撃が残った。怒りとも悲しみともつかない感情を、しばらく持て余していた。
考えていくうちに、「命の道具化」という言葉が浮かんだ。
国家が安全保障や抑止という名のもとに、命を戦略の要素として扱う。ある暴力を行使することで、より大きな暴力を防ぐ。恐怖を示すことで、さらなる衝突を回避する。そこでは命が道具になる。私が強く反応したのは、暴力そのもの以上に、その構図だったのかもしれない。
抑止の論理は、合理的に見える。より多くを守るために限定的な犠牲を選ぶという考え方は、冷静で現実的に映る。だがその瞬間、「世界は恐怖が秩序を支える」という前提に立つ。暴力は管理され、命は比較可能な単位へと還元される。
ここで、例のトロッコ問題を思い出す。暴走する列車の進路を切り替えれば五人が助かり、一人が犠牲になる。レバーを引くべきか否か、と問われるあの思考実験である。
私はこの問いに対し、答えを出せない。優柔不断だからではない。問いが示す枠組みに、どうしても違和感が残るからだ。「五と一」という数に置き換えられた瞬間、命はすでに計量可能なものとして扱われている。だが私が考えているのは計算の正否ではなく、そもそも命をその地平に乗せてよいのかという点なのである。
現実の政治も、この思考実験と無縁ではないだろう。より大きな被害を防ぐために、限定的な暴力を選ぶ。その判断は、しばしばやむを得ない現実として提示される。しかしレバーを引くか否かだけを議論しているかぎり、私たちは常に同じ世界、つまり命を計算対象とする世界に立ち続けることになる。
国家は理想だけでは動かない。安全保障や利害の調整を無視することはできない。だが同時に、国家は本質的に自己保存に傾く存在でもある。権力は自らを守ろうとする。持つ側も、従う側も、権力の磁場に引き寄せられる。善意でさえ、その構造に触れれば変質する可能性がある。
では何を上位に置くのか。
浮かんだのは「慈悲」という言葉だった。個人の利益や国家の利害を超え、人間全体、さらには地球全体の調和を祈る言葉である。慈悲の世界では、敵対者をも排除しない。命を奪った者にこそ、最も大きな慈悲が必要だと考える。逆説的に聞こえるかもしれないが、暴力を選ぶに至った構造そのものが苦の連鎖であるなら、その連鎖の内部にいる者もまた苦の中にある。
慈悲は、感情的な優しさではない。それは関係の再設計である。恐怖ではなく相互依存を前提にし、力の誇示ではなく全体への帰属を思い出させる。
もちろん、慈悲は即効性をもたない。現実の政治は、抑止や力の均衡で動いている。慈悲はあまりにも弱い。制度を一気に変える力はないかもしれない。理想論のようにも思える。
そこで John Lennon の Imagine を思い出した。この曲が生まれた背景には、ベトナム戦争の激化、冷戦下の国家対立、そして競争と分断を加速させる資本主義社会への違和感があった。暴力とイデオロギーが世界を分断していた時代、Johnは別の世界を描いて見せた。
この曲がなにか具体的な政策を生み、何かが解決したわけではない。ただ、多くの人の思考に影響を及ぼしたとは言える。支配するのではなく、環境として作用する影響のあり方もある。
私は権力を奪いたいのではない。恐怖が唯一の言語になる世界を当然のものとして受け入れたくないだけだ。レバーを引くかどうかという問いの内部にとどまるのではなく、その問いを成立させている世界そのものを問い直したい。
私のなかの混乱は、こうして思考を重ねるなかで少しずつ静まっていった。怒りは消えたわけではない。しかし形が変わった。いま私が守ろうとしているのは、正しさの優位ではない。恐怖に依存しない世界の可能性である。