AIが文章を書く時代、「自分が作った」という感覚はどこに宿るのだろう。
もともと文章が苦手だった人が生成AIに出会うと、ちょっとした万能感が得られるらしい。頭の中にあったアイデアが言語化できるようになった喜びは、人を夢中にさせてしまうらしい。それ自体は害のない、どちらかといえば有益なことだと思う。しかし著作権について考えはじめると、少し話は難しくなる。
文章を作るプロセスは、移動手段の進化とよく似ているように思う(突拍子もないと思われるかもしれないが、これから説明するので少し我慢してお付き合いいただきたい)。どちらも「目的地(ゴール)に到達する」という目的は変わらないのに、人間のエネルギーの消費量が大きく変わった。ということで、移動手段と執筆を比較しながら考えてみよう。
▼ ① 従来の執筆は「徒歩」
何冊もの本を読み、取材に足を運び、自分の頭で構成を練って、一文字ずつ原稿を書く。目的地にたどり着くエネルギーは100%自分の力だ。だからこそ、生み出されたものへの愛着も権利意識も、強く自分の中に宿る。
▼ ② PCや検索は「自転車・バイク」
インターネットが登場し、情報収集や推敲が格段に楽になった。機械の力を借りつつも、「自分が関わっている」手応えはまだ残っていた。この時点では、まだ「自分が書いた」という意識が自分の中に宿っているように思う。
▼ ③ 生成AIは「高性能カーナビ付きの自動車」
行き先(プロンプト)を入力すれば、AIが人類の集合知から「確率的に正しいルート(文章)」を瞬時に弾き出す。もちろんドライバー(執筆者)は実際にハンドルを握り、ナビが示す経路を確認しながら走る。ブレーキを踏むのも、車線を選ぶのも、まだ人間だ。
ただし、「どこを通るか」という最も重要な判断を機械に委ねている点は、徒歩や自転車とは根本的に違う。かつて執筆者が頭を悩ませていた「構成をどう組み立てるか」「どんな言葉で表現するか」という核心部分を、AIが肩代わりしている。そのため、「自分が書いた…のか?」という疑問が少しだけ頭の片隅に残る。この時点では、どこまでがAIでどこからが自分か、わからなくなってきている。
▼ ④ そして「自動運転」へ
AIがさらに進化すれば、人間は行き先を告げるだけでよくなる。移動(執筆)そのものへの人間の関与は、ほぼゼロになるかもしれない。機械の関わりが増えるほど、目的地には楽に着ける。でも同時に、「自分が関わった」という手応えはどんどん薄れていく。こうなると「自分が書いた」という意識はほとんどなくなっているような気がする。
■ ふたたび著作権について考える
ここで、著作権の話に戻る。AIで書いた文章には、どこまで著作権が認められるのだろうか。
おそらく、似ている文章はたくさん生産される。同じような「高性能カーナビ(AI)」を使い、同じ時代背景の中で同じようなテーマを設定すれば、AIが出力する文章が偶然一致してしまうのは、ある意味で必然だ。全員が同じ「自動車」に乗っている以上、同じ景色にたどり着くのは不思議でもなんでもない。
人類の集合知を確率的に要約して出てきた言葉に対して、「これは私だけの固有の権利だ」強く主張することに、どれほどの説得力があるのだろうか。そもそも、そのなかに「私」という要素はどれほど含まれているのだろうか。
これはモラルの問題以前に、構造的な問題だと思う。AIが生み出すコンテンツは、ある意味で「自然発生的に」社会に生まれてくるものに近い。「誰かが作った」というより、「時代がそれを呼び込んだ」という感覚のほうが、実態に近いのかもしれない。
■ これからの創作の価値はどこにある?
だからといって、創作に価値がなくなるわけではない。ナビが示したルートをなぞっただけの道に、自分だけの足跡は残りにくい。ハンドルを握っていたのは自分でも、「どこを通るか」をAIに委ねている以上、生み出されたものを「完全に自分の作品だ」と主張できる余地は、構造的に狭まっていく。
でも、だからこそ面白くなる部分がある。あえて車を降りて「徒歩」で体験したエピソードを混ぜてみる。ナビが絶対に提示しないような、自分だけの偏愛や遠回りを付け加えてみる。そんな「効率の海に浮かぶ、確信犯的な非効率」の中にこそ、「これは本当に自分が作った」と胸を張れるものが宿るのかもしれない。
たとえば、このブログ記事はその好例だ。AIが書いた部分と、僕が書いた部分が混ざっている。読者のみなさんは、それがどこなのかわかるだろうか。
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