【隠居の書棚】 #11 多重解決ものって何だろう(1)

今回取り上げる本
『毒入りチョコレート事件』アントニー・バークリー
『ギリシャ棺の謎』エラリー・クイーン
『ワトソン力』大山誠一郎

◆ご存知ですか? 多重解決。

 今回は多重解決ものミステリについて、書きたいと思います。
 これは、本格ミステリの趣向のひとつですが、ミステリのタームとしてそれなりに確立しているとはいえ、そんなにメジャーな言葉ではないかもしれません。
 このカテゴリを語るときに真っ先にあがる作品が、アントニー・バークリー『毒入りチョコレート事件』(1929)です。これはもう異論がないでしょう。ある毒殺事件について、六人の素人探偵がそれぞれの解決を披露しあうという構成で、多重解決ものの嚆矢として、あまりにも有名な古典作品です。以降の多重解決ものには、これにオマージュを捧げているものが少なくありません。
 多重解決ものとは、「基本的に同じ条件や手がかりを与えられた複数人の推理により、平行してそれぞれの解決が次々と語られる。他の推論や証拠により順次否定されていき、最後に正解が残る」というミステリの形式のことだと、僕は「なんとなく」理解していました。「なんとなく」と言うのは、この文章を書くにあたって熟考した際、それがちょっと揺らいできたからですね。

 最初の揺らぎを感じたのは、次のような考えが浮かんだときでした。
 先程の説明だと「それ、普通のミステリじゃね?」という疑問が出てきますよね。探偵や警察が、様々な状況や証拠から、こいつが怪しいと次々とそれらしい仮説を立て、否定され、推論の末に次の仮説を立て……というのは、本格ミステリに限らず、どんなミステリでも繰り返されるパターンです。特に安楽椅子探偵ものやクローズドサークルを扱う作品では、登場人物がそれぞれ提唱する仮説について、丁々発止のディスカッションが頻繁に行われます。現実の事件の捜査だって、仮説と検証の繰り返しで進むものでしょう。
 むしろ、その仮説をめぐる推理の更新こそ、本格ミステリ全般の本質的面白さじゃないのか? であれば、多重解決ミステリという新カテゴリを、わざわざ唱えるのは変じゃない?  ……頭がこんがらがってきました。

◆ギリシャ棺は多重解決ものか?

 例えばエラリー・クイーン作品では(特に中期以降)、まず偽の解決があって、さらに正しい推理があるという「二重解決」パターンが多いのですが、クイーンを「多重解決もの作家」と呼ぶ人はいない(たぶん)。でもネットを検索してみると、初期の国名シリーズ『ギリシャ棺の謎』を多重解決ものと位置づけている人はいるようです。どこが違うのでしょう?
 『ギリシャ棺』は、まだ駆け出しのころの探偵エラリーが、犯人の仕掛けた偽の手がかりに翻弄され、一見論理的な冴えた推理を立てては失敗する様が繰り返されます。先の二重解決と違うのは、解決(になってもおかしくないレベルの仮説)がいくつも繰り出されることでしょうか。
 普通のミステリは仮説を重ねながら推理を進めていきますが、多重解決ものは正解に見える解決をいくつも示しながら進めていきます。これによって、ひと味違うものになっています。とすると、これが「多重解決もの」の要件を満たしているのかもしれません。おもしろさの方向性が一致しているように感じます。

 とはいえ、『ギリシャ棺』には「複数人(複数探偵)」による推理合戦の要素は極めて薄い。「本格ミステリ的」な推理を披露するのはエラリーだけです。そこに、なんだかもやもやした気持ちが残ります。
 読者のみなさんは「いや、各捜査関係者もその場その場で仮説はたてているじゃないか」と言われるかもしれませんが、いずれも仮説レベルに留まっている。解決と呼ぶには、あまりにも弱かったり、根拠が薄かったりして、たいして面白くはない。そうすると、仮説ではなく、解決に見えるほどの強さをもった説が複数並ぶということが、多重解決もののキーポイントな気がします。
 多重解決ものというタームには、「複数の探偵(役)」が同じ条件のもとに「平行して」それぞれ別々の推理を組み立て、独自の解決を提出し、それについて皆でディスカッションを行うという「過程の面白さ」が欠かせないように思います。この「複数の探偵による推理合戦」も、キーポイントとして頭に留めておきたいところ。とすると、やはり『ギリシア棺』は多重解決ものに必要な要素が欠けているように見えます。

 その一方で、『ギリシア棺』には、それぞれが正解であってもおかしくないような「面白く」「ロジックに満ちた」「完成度の高い」解決が次々に繰り出されますし、作者はそれがこの作品のミソだと間違いなく意識している。これは多重解決ものが持つ面白さと相似です。であれば、これを「ひとり多重解決もの」と考えてもいいのではないだろうか? つまり、完成度の高い解決が複数繰り出されるという点が抑えられていれば、複数探偵による推理合戦は必ずしも必須条件ではないということなのだろうか?

 ……なんだかさらに頭が混乱してきました。

◆全編、多重解決ものの連作短編集『ワトソン力』

 こんなことを考え始めたきっかけは、最近刊行された一冊のミステリでした。その本のタイトルは『ワトソン力』。
 「ワトソンか」じゃなくて、「ワトソンりょく」です。作者は、以前このコラムでも紹介した『アリバイ崩し承ります』の大山誠一郎。今、一番信頼できる本格ミステリ作家の一人でしょう。彼はミステリのカテゴリにこだわった短編連作シリーズをいくつか書いています。
 『密室蒐集家』では文字通り密室もの(不可能犯罪もの)のバリエーション。『アリバイ崩し承ります』は、文字通りアリバイ崩し。『ワトソン力』では、文字通りホームズの相棒ワトソンのような「探偵助手」をテーマに……しているわけではありません。

 ワトソン力とは、主人公が持っている不思議な力。「事件が起きたとき、彼の周りにいる人々の推理力がなぜか飛躍的に跳ねあがる」という能力です。名探偵を影から支え、その力を100%発揮させる触媒のような力。主人公は自身のその力を「ワトソン力」と呼んでいるんですね。
 残念ながら、彼自身にはその力が及ばない。ですが彼は刑事ですので、仲間の刑事たちはその恩恵で抜群の成績をあげているという設定なのです。
 彼は刑事ではありますが、物語は彼とその仲間の捜査活動を描いてはいません。ここで描かれるのは、何らかの理由で警察が介入できない状況で、限られた人間が密室空間に閉じ込められて起きる——つまり、クローズドサークルの事件です。クローズドサークルですから、登場人物が限定されており、その中に犯人がいます。つまり全員が容疑者なんですね。主人公は、なぜかいつもそのサークルに紛れ込んでいます(笑)。

 主人公は一応刑事ですから、現場で事件を仕切りますが、彼自身は名探偵とはいえません。でも、彼には「ワトソン力」があります。事件関係者=容疑者たちは、その力によって次々と推理力に目覚め、各人が名探偵と化し、他の容疑者を犯人と指摘しはじめます。各人の推理力はマックスまで跳ね上がってますから、好き嫌いや損得の感情とは別の、怜悧な論理によって真相を暴こうとするのです。
 こうして始まる、名探偵同士が高度な推理力で互いを犯人と指摘しあう推理合戦。これぞ、ロジックの闘いが好きな読者が夢見るパラダイスではないでしょうか。

 『毒入りチョコレート事件』の例を見てもわかるように、多重解決ものは、事件の関係者とは別に、複数の探偵役が登場します。事件の顛末、事件関係者についての説明、それとは別に複数の探偵の紹介とそれぞれの推理の詳細……これらをきちんと書こうとすると、かなりの長さが必要になります。
 しかしこの課題は、事件の顛末を描くと同時に容疑者を限定し、その容疑者たち自身に名探偵役も兼ねさせることで解決します。こうすることで、ボリュームは抑えつつ、多重解決ものをこってりと描くことが可能になる。実際『ワトソン力』では、人物描写や背景描写は最低限に絞って削ぎ落とし、事件が起きた次のページでは、即、探偵たちによる推理合戦が始まります。
 毎回容疑者(=探偵役)を変えつつ、多重解決もの空間を実現するための手段として生み出された「ワトソン力」は、ある意味天才的な発明といえるでしょう。

◆迷って再出発

 『ワトソン力』の本のあらすじや帯に「これは多重解決ものです」なんて謳ってはいませんが、作者がそれを考えて連作を書いていたことは、まず間違いありません。いずれも、僕が考えた「基本的に同じ条件や手がかりを与えられた複数人の推理により、平行してそれぞれの解決が次々と語られる。他の推論や証拠により順次否定されていき、最後に正解が残る」という狭く曖昧な定義に当てはまる作品ばかり。たぶん僕の考えはそんなにずれてないのだろうと思いました。
 そこで、このコラムを再開するにあたって多重解決ものをとりあげ、その代表的な作品を紹介することにしたのです。

 ところが、具体的な作品をあれこれ思い浮かべているうちに「この作品は、ずっと多重解決ものだと思ってたけど、自分の定義からはズレてる気がする」「多重解決ものと思っていなかったけど、実はそうなんじゃないか?」などと迷いが生じ、さらにネットで多重解決ものとして紹介されている本が、自分が思っていたものとかなりズレていたりするものだから、完全に筆が止まってしまいました。
 これは、もう一度考え直したほうがいいかもしれません。

◆次回予告

 というわけで、当初の思惑をめちゃくちゃに逸れて、僕なりの「多重解決」を再定義してみたいと思います。決着をつけるなんておこがましいことを考えているわけではなくて、僕なりのモノサシを、まずは作ってみたいということですね。
 それに当てはめながら、具体的な作品について紹介したり、ケチをつけたり(笑)していきたいなと。
 インタールードをはさんで「今回から内容を変える」と宣言いたしましたが、結局のところ直近で読んだ『ワトソン力』を紹介しながら無駄話をするという、あまり変わりばえのしないものになりました(笑)。
 前のコラムから三ヶ月以上過ぎてるのにこの体たらくで、申し訳ない限りです。
  

白井 武志

投稿者プロフィール

早期退職後、大阪から琵琶湖のほとりに移住して、余生は釣り(トップウォーターバス、タナゴ)をして過ごす隠居。パソコン通信時代を知るネットワーカー。PCの海外RPG、漫画、海外ドラマ、本格ミステリなどを少々嗜む。

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