大阪・関西万博では抽選に外れて行けなかったnull。2026年10月16日、みなとみらいの「null²ⁿ(ヌルヌルネクサス)」で、ようやく辿り着くことができた。そのうえ、この日は落合陽一さんご本人が現れて解説してくださるというおまけつき。1年半待った甲斐のある一日になった。
「壱の間」は、おそらく万博のnullで表現した世界。ネクサスでは、さらに4つの間が追加された。「弐の間」は、光のない無響の空間。目を閉じていても開けていても、同じ暗闇が続くなか、さまざまな音だけが聞こえてくる。その音に耳を澄ませているうちに、寝ているような起きているような、生きているような死んでいるような心持ちになり、心細くなっていった。自分の身体の輪郭が溶けて、闇の中に消えていくような気がした。
そんななか、突然、緊急地震速報が鳴り響いた。しかし、誰ひとり動かない。これも演出のひとつなのか? 私は、そう思いながらじっと周りの様子を窺っていた。不思議なもので、誰も動かなければ、自分も動こうとは思わない。「これはきっと動かないことが正解なんだ」とでも思ったのか。
次の「参の間」は、無限の鏡の中に物質が広がる空間。弐の間で失いかけた自分の輪郭だけでなく、さまざまな物質の輪郭がくっきりと浮かび上がる。古今東西に存在した質量のあるものが展示されている。その数、170。ひとつひとつ見て歩くが、特に共通点も感じられない。いったいどんな基準で展示品を選んだのか。
そのとき、なんと落合陽一さんご本人が登場。「どうもどうもー」と、まるで友だちのような気軽さで部屋に入ってくる。「ここはさっきの緊急地震速報の回ですよね。あれ、誤報だったらしいですよ。マグニチュード9.9といったら、地球規模で(やばい)」と、笑いながら話す。そこではじめて参加者たちは「あ、あれ誤報だったんだ」とホッとする。暗闇で黙って警報を聞いていた私たちが、ようやく現実に戻ってきた瞬間だった。
そのあと、落合さんが「私のおすすめは、この蘭引(らんびき)です」と紹介した。蘭引とは、江戸時代の蒸留器具。熱を加え、ものの中から大切なエッセンスだけを取り出そうとした道具である。蒸留という営みが、世界からエッセンスを取り出す落合さんの試みと重なるのか。そういった意図とは別に、そこにある蘭引の確かな土の質感と重みが、強く心に響いた。
続く「肆(し)の間」では一転して、映像と音の刺激が激しく押し寄せてくる。情報量の多さに圧倒され、少し辛さを感じるほどだった。弐の間の静寂と、肆の間のデジタルの嵐。降り注ぐ音と光のなかに立ちながら、あの蘭引の静かな姿を懐かしく思い出す。
地震速報についてあとで報道を確かめると、気象庁のシステムが、カムチャツカ半島付近で起きたM6.9の地震をM9.9と見積もってしまい、速報はのちに取り消されたとのこと。誤報だったからよかったようなものの、これがもし本当だったとしたら、私たちはあの不思議な空間のなか、演出のひとつだと勘違いしながら被災していたかもしれない。そう考えると、ゾッとした。
機械は遠くの揺れを巨大地震と読み違え、私たちは本物の警報を作品の一部と読み違えた。人も機械も、届いた信号をそのまま受け取るのではなく、自分の中にある文脈で意味づけてしまうのかもしれない。
デジタルと物質、そして人間の感覚の境界線を旅した一日の終わりに、私の中に残ったのは蘭引の存在感だった。記号があふれ、その意味さえ読み違えてしまう世界の中で、土の肌をもち、確かな重みでそこに在る蘭引に、なぜこれほど心惹かれるのか。落合さんの言う「質量への憧憬」とは、こういう感覚なのかもしれない。