【真花の本棚】『イン・ザ・メガチャーチ』(朝井リョウ)

書評

朝井リョウの『イン・ザ・メガチャーチ』を読んだ。読み終えたとき、なんともいえない気持ちになった。この持って行き場のない気持ちをどうすればいいのか、しばらく考えていた。

いちばん近い言葉は「やりきれなさ」だった。ではそのやりきれなさとは何なのか。

この話の主要な登場人物3人は、とてもありふれた、そして特に悪くもない人たちだ。私は彼らの衝動にあまり共感できない。それでも、ある程度は理解できるし、幸せを願う気持ちもあった。彼らがふつうに暮らせる世界であってほしい。そう思いながら読んでいたから、そうではなかったことに衝撃を受けた。

「人は自分を使い切りたい」

作中、国見という人物がこんなことをいう。「人は自分を使い切りたい」。この言葉は、幸福とは何かという問いを生む。自分の時間、自分の資産、自分の体力、自分の感情。これらはすべて自分の幸せのために費やしていいものだ。しかし登場人物たちは、それを自分ではなく推しのために使い、幸福を感じる。

何かに対して自分を100%注ぎ込んでいるという感覚は、本人以外には絶対に覆すことのできない、強力で絶対的な幸福をもたらす。逆にいえば、最も避けるべきなのは「自分が余る」ことだ。余ったエネルギーや思考は、孤独感や将来への不安、退屈、自己嫌悪へと向かってしまう。だからなるべく、すべてを使い切ってしまいたい。

タイトルの「メガチャーチ」は巨大な教会を意味する。自分が信じる神(推し)のために、自分のすべてを捧げたい。そう願う人たちが集まって、巨大な教会をつくり上げる。それが本書でいうところの「ファンダム」だ。つまり本書が描く推し活は、熱狂的な宗教活動と限りなく近い。

たしかに、何かに全力投球しているときは幸福なのかもしれない。夢中になっているとき、人は迷わない。ちょっとした疑問が頭に浮かんでも、「でも今はここにいたい」という気持ちが勝ち、そのまま突き進んでしまう。

私にも覚えがある。本や映画や音楽に没頭しているとき、ちょっとした悩みはどこかへ行ってしまう。なんなら、体の痛みすら忘れてしまうほどだ。推し活で感じる「自分を使い切りたい」は、この感覚と似ているのだろうか。

どこが違うのか

いや、ちょっと違う。私が何かに没頭しているとき、そこに取り返しのつかなさはない。自分の体や資産や時間をある程度費やしたとしても、それで破綻することはないし、そうなりかけたとしても自力で引き返す余地がある。

しかし本書に出てくる推し活は、自分を使い果たすどころか、自分をなくしてしまいそうな危うさがある。そんなぎりぎりの場所に身を置いて、すべてを捧げ切ってしまう。

作中、何度かぞくっとするシーンがあった。彼らが一歩、また一歩と歩んできた道が、いつの間にかふつうの暮らしから遠く離れ、とんでもない場所へ続いていると気づいたとき、彼らがまだ感じていない絶望を先取りして背筋が凍った。気づいてほしいと願うが、彼らが気づくはずもない。疑いを持つことそのものを、彼らは裏切りだと感じるのだから。

そこまで考えて、最初のやりきれなさの正体がわかった。彼らをふつうの暮らしから引き離したのは、悪意でも特別な異常さでもない。「自分を使い切りたい」という、私にも覚えのあるごく当たり前の願いだった。悪意があるとすれば、それは彼らの側にはない。その願いがどこへ向かうかを誰よりもよく知っていて、行き先で待ち伏せている側にある。

井上 真花(いのうえみか)

有限会社マイカ代表取締役。PDA博物館の初代館長。長崎県に生まれ、大阪、東京、三重を転々とし、現在は東京都台東区に在住。1994年にHP100LXと出会ったのをきかっけに、フリーライターとして雑誌、書籍などで執筆するようになり、1997年に上京して技術評論社に入社。その後再び独立し、2001年に「マイカ」を設立。主な業務は、一般誌や専門誌、業界紙や新聞、Web媒体などBtoCコンテンツ、および広告やカタログ、導入事例などBtoBコンテンツの制作。プライベートでは、井上円了哲学塾の第一期修了生として「哲学カフェ@神保町」の世話人、2020年以降は「なごテツ」のオンラインカフェの世話人を務める。趣味は考えること。

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