父が東京のサ高住に入居して、1年が経過した。おかげさまで新しい生活にも慣れ、穏やかに暮らしているようだ。しかし、突然不安に襲われることもあり、そのたびに私に電話をかけてくる。
理由は、「具合が悪い」「歯が痛い」「役所の書類がわからない」「通帳を記帳できない」など、さまざまだ。父はこれまで何でも自分でやってきたが、最近は記憶力や判断力が落ち、自分で状況を把握したり、対処したりすることが難しくなってきた。それが不安につながるらしい。
父から電話がかかってくると、私は話を聞いて状況を整理し、問題点をはっきりさせたうえで解決しようとする。緊急性があると判断すれば、夜遅くてもサ高住へ出かけて対応しようとする。
そんな私を見て、夫は「具合が悪いときは、まず施設のスタッフに連絡したほうがよい」と言う。現場にいるスタッフなら、顔色を見たり、体温や血圧を測ったりできる。私が駆けつけるより早く、適切に対応できる。合理的に考えれば、夫の言うとおりだ。
父は不安を解消するために私へ電話をかける。一方、私には「対応しなければ悪化するかもしれない」「放置した結果、何か起きたら後悔する」という不安があり、すぐに動きたくなる。
つまり、不安なのは父だけではない。私もまた、「私が何とかしなければ」という不安と責任感に突き動かされているのだ。
これを繰り返すうちに、父は「娘に電話をすれば何とかなる」と学ぶ。私は、対応して問題が収まるたびに「やはり私が動かなければ」と思う。その結果、父はスタッフに相談する経験を積めず、私は父の問題を他者に任せられなくなる。
こうして、双方の行動と、その結果として得られる安心によって、依存の循環が強化されていく。同じようなことは、おそらく多くの介護の現場で起きているだろう。
では、この循環を弱めるにはどうすればよいのか。
実際に問題が起きると、両者とも反射的に動いてしまう。そこで、平常時にあらかじめルールを決め、そのルールに従って行動することが必要になる。
たとえば、緊急性の基準を決めておく。すぐに対応しなければならないことと、そうでないことを分け、緊急性が低い問題は、対応する時間をあらかじめ決めておく。不安は夜中に増大しがちだが、夜中にできることはそれほど多くない。
また、父が施設スタッフの支援を受ける経験を積み、「娘以外にも頼れる人がいる」と理解することも重要だ。そのため、父から体調不良の電話があったときには、「まず緊急ボタンを押して」と伝える。スタッフが来て問題が解決すれば、父も「こういうときはスタッフを呼べばよい」と学べる。一度では身につかないため、何度も経験してもらう必要があるだろう。
哲学カフェで「ケアする人は誰がケアするのか」というテーマをやってみたいと考えている。そこで思い浮かぶのは、家族、専門職、地域、制度など、ケアラーを外側から支える存在である。もちろん、そうした支援は重要だ。しかし同時に、ケアラー自身も自分を守ることを学ばなければならない。
ケアする人は、まず自分をケアの対象に含めるということ。自分をケアするとは、休暇を取ったり、気分転換をしたりすることだけではない。
- 今の問題は、本当に自分が対応すべきものか考える
- 相手の不安と、自分の責任を分ける
- 専門職や施設に任せる
- すぐには解決できない状態を受け入れる
- 夜は眠る
- 断ったときの罪悪感に耐える
こうした判断ができるようになることも、自分をケアすることの一部なのだと思う。
よいケアとは、相手の問題をすべて代わりに解決することではない。ケアラーが一歩引くことは、相手を見捨てることでもない。家族以外からも支援を受けられるようにし、本人が自分で助けを求める力をできるだけ保つことも必要だ。
ケアする人は、自分をケアの外側に置かない。自分一人ですべてを背負うのではなく、本人、家族、医療、施設、制度へと役割を分けていく。それが、依存ではなく支え合いとして、ケアを長く続けるための条件なのではないか。