生活の中で、ふと立ち止まる瞬間があります。そのきっかけは、小さな違和感です。注意深く観察していなければうっかり見落としてしまうような、とても繊細な感覚です。
決して心地よいものではありません。むしろ、時に心を重くし、時にイライラを呼び起こします。目を閉じて見なかったことにしてしまいたい…そんな誘惑に駆られることもあるでしょう。しかし、そのときあえて少しだけ手に取ってみると、そこから新しい世界が広がっていくのです。
座れない空席
いくつか例を挙げてみましょう。ある日、電車に乗ったときのことです。車内を見渡すと、ひとつだけ席が空いていました。ところが、その席の前に男性が一人立っています。周りを見ると何人かの人が立っていましたが、その人が席の前のスペースを塞いでいるため、誰も座ることができません。
私は「なぜ彼はそこに立ち続けるのだろう?」「他の人が座れないことに気づかないのだろうか?」と気になって、目が離せなくなりました。
やがて目的の駅に着き、私は電車から降りましたが、モヤモヤは消えません。「なぜ彼は席を塞いでいたのだろう」と考え続けているうちに、ふと「あれ、私はなぜこんなに気にしているのだろう」と思いました。
その席のことは、私にとって何の関わりもありません。それなのに、なぜいつまでも考えているのでしょうか? 最初は「理不尽に対する怒り」だと思ったのですが、どこか違う気もします。さらに考えを巡らせた結果、「謎を解きたかったのに解けなかった」という気持ちにたどり着きました。
その答えに納得した瞬間、モヤモヤはどこかに消えてしまいました。謎は解けないままですが、それすら「どうでもいい」という気持ちになったんです。
社会に対する違和感
違和感の素は、自分の内面だけに潜んでいるものではありません。社会の出来事や他者のふるまいの中にも、深く考えるべきサインとして現れます。
國分功一郎さんの著書『目的への抵抗』に登場するジョルジョ・アガンペンというイタリアの哲学者は、コロナ禍で「葬式は控えるべきだ」という空気があったことに対して違和感を抱き、「生存以外にいかなる価値をももたない社会とはいったい何なのか?」と問いかけました。
これは決して「葬式をしなければならない」という主張ではありません。アガンペンが感じたのは、その背後に潜む信条です。「生きている人だけに価値がある」という考えが、社会の合意のように現れてしまうこと。死んだ人に敬意を払うことが軽んじられ、そのことに対して宗教も声を上げない。その状況に違和感を覚えた、と。
この「違和感」は、単なる感情的な反発ではありません。社会の前提にいつの間にか入り込んだ価値観を照らし出します。生きている人に価値を集中させる社会は、何を見落としているのか。死者に対する態度を通して、私たちは「人間とは何か」をどのように捉えているのか。そんなことを考え始めるきっかけになります。
このように、違和感には文化や制度の奥に潜む前提を浮かび上がらせる力があります。見過ごしてしまえばただのモヤモヤにすぎません。けれど立ち止まり、その違和感を大切に抱えることで、世界の見え方は変わり、自分が何を大切にしているのかが見えてくるのです。
モヤモヤは「種」
モヤモヤを感じたからといって、必ずしもすぐに解決する必要はありません。解決しないまま抱えていても構いません。無理に手放さなくてもよいのです。
モヤモヤは、自分を知るための種になります。種は大切に持っていればよいのです。時が来て芽が出れば、その芽がどう育つのかを見守ればよい。そのとき初めて、「ああ、このモヤモヤは私の中の何かを表現していたのだ」と気づきます。
違和感を感じたら、それを見逃さずに抱えておき、タイミングが来たら取り出して眺めてみる。違和感を無視したり急いで処理したりするのではなく、一度受け止めて時間をかけて理解する。この姿勢こそが、自己理解を深める有効な方法なのです。そうすると、その場では見えなかったことが見えてきたり、納得できる答えが見つかったりします。納得すればモヤモヤが消え、心が軽やかになります。
違和感を見逃さないとは、自分の内側を知ることでもあり、同時に、社会を成り立たせている無言の合意を問うことでもある。それは、哲学の素朴で確かな始まりでもあります。