先日、スーパーで買い物をしていたら、SEKAI NO OWARIの「Dragon Night」がかかっていた。妙に浮かれた四つ打ちで、鮮魚コーナーの前で聴くにはやけに景気がいい。カートを押しながら、なんとなく歌詞を追っていた。百万年に一度だけ訪れる夜、終わりの来ないような戦いを休んで、祝杯を揚げる。そういう歌だ。
「彼」にも理由がある
この曲でいつも引っかかるのは、僕の正義がきっと彼を傷付けていたんだね、という一節だ。
すごいのは「きっと」がついていることだと思う。傷つけていた、と言い切っていない。まだ確信がない。たぶんそうなんだろうな、という手触りのまま置かれている。自分の正しさを疑うというのは、そのくらいおぼつかない作業なんだろう。
しかも順番がいい。1番で「僕の嫌いな彼にも彼なりの理由がある」と歌っておいて、2番でようやく自分の正義を疑う。逆じゃない。相手を理解しようとしたから、自分が見えている。
僕の正義は、たぶん間違っていない。それは相手もそうだ。互いに正しいまま、終わりが来ない。正しさは、正しいがゆえに引き下がれない。
また聞きの愚痴
その手の話を、妻からときどき聞く。旦那さんが定年で家にいるようになってから、会うたびに愚痴が出るのだという。家事の段取りに口を出されるらしい。言い方は毎回少しずつ違うけれど、中身はだいたい同じで、つまり終わっていない。
何十年もかけて作り上げてきた手順があって、そこに善意が入ってくる。旦那さんはきっとアドバイスのつもりなんだと思う。効率よくやった方がいい、改善できるんじゃないかというのは、それ自体まったく正しい。でも、正しいから引き下がれない。向こうにも、このやり方でこの家は回ってきたという正義がある。どちらも間違っていない。だから終わらない。
順番の話
歌の順番でいえば、先に来るのは相手の理由のほうだ。口を出すのをやめるとか、家事を分担するとか、そういう話はたぶんその後にしか置けない。
だいぶ前に、BtoBの記事を書いていて、編集さんから取材内容とまるで関係のない直しを求められたことがある。その人はBtoCの畑の人だった。指摘そのものは、たぶんBtoCの作法としては正しかったんだと思う。でもこの案件には合っていなかった。僕は説明した。それなりに揉めて、結局は言われたとおりに直した。
案の定、クライアントからクレームが入った。編集さんがNGを出した原稿をそのまま出したら、通った。
僕は正しかったわけだ。でも編集さんはそれきり何も言わなかったし、その案件からも離れたと思う。そのあと、そこからの仕事は来なくなった。
僕は自分の正しさを説明しただけで、あの人がなぜそう言ったのかは、最後まで聞かなかった。順番が逆だった。誰も得していない。
終わりのあとを歌っている
面白いのは、かつて世界の終わりと名乗っていたバンドが、終わったあとの夜を歌っていることだ。世界が終わる話じゃない。休戦したその先で、敵だったやつと踊る話をしている。
僕はあの編集さんと、踊っていない。何も聞かないまま、勝って、それきりだ。あれから何年も経つのに、いまだにどうすればよかったのかわからない。ただ、順番だけは間違えた。
定年って、終わりみたいな顔をしてやってくる。でもたぶん、そのあとの方が長い。年金と今あるお金で暮らしていけるだろうか。不安は尽きない。環境が変わって、居場所が揺らいで、それでついつい家事の段取りに口を出してしまうのかもしれない。
そのとき僕は、また説明を始めるんだと思う。