最近アート系の仕事が増えている。勉強がてら、AIでアート関連の情報を集めるミニアプリを自作していて、その画面に一枚の絵が出てきた。マネの《オランピア》だ。全裸の女性がこちらを見ている。視線が強い。1865年のサロンに出品されて、猛烈に叩かれた絵らしい。きっと、裸だから怒られたんだと思っていた。違った。裸は理由じゃなかった。
女神ならよかったらしい
この絵の構図は、ティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》を下敷きにしている。横たわり方も、こちらを見る目線も、ほぼ同じ。三百年前の名画と同じポーズなのに、片方は名画で、片方は醜聞になった。違ったのは、彼女が女神ではなかったこと。
腕輪、真珠のイヤリング、首に巻いた黒いリボン、片方だけ脱げたスリッパ。当時の人にはこれが記号として読めたのだという。対価を得て身体を差し出す女性の記号だ。娼婦が、堂々とこちらを見返している。批判はそこに集中した。女神ならよかったらしい。どうしてだ、と思う。
つまり彼らは、裸を見ていたんじゃない。腕輪が示す記号を読んでいた。同じ絵の具が、記号を読める人にはまったく別のものに見えている。僕はその絵の具しか見ていなかったから、百五十年前の人が何に怒ったのか、まるでわからなかったわけだ。
弁護のために、脱がせる
そのまま画面をたどっていくと、もう一枚。ジェロームの《アレオパゴス会議のフリュネ》が表示された。これも全裸の女性の絵だけれど、場面は法廷だ。
フリュネは不敬罪に問われている。そして服を剥いでいるのは、弁護人のヒュペレイデスだ。裁判官たちは彼女の美しさに打たれ、無罪の判決を出す場面だという。
弁護のために脱がせる。今の感覚では正気を疑う。でも「内面の徳は外見の美として表れる」と信じられていた世界では、これは筋の通った弁護なのだそうだ。美しい、ゆえに徳がある、ゆえに罪はない。三段論法として完成している。
ここでも裸は裸じゃない。徳の記号だ。オランピアの腕輪が娼婦の記号だったように、フリュネの肌は無罪の証拠として読まれた。同じ「脱いだ女性」が、片方では罪の証明になり、片方では無罪の証明になる。記号は、読む側の辞書によって反転する。
しかもこの逸話、古代の伝承で史実かどうかは怪しいらしい。ジェロームは伝承を絵にした。実体のない話を、油絵という実体にした。実体のないものが、記号を伝って世代を越えてくる。伝承が絵になり、絵が画像データになり、AIがそれを僕のところへ運んできた。何度も乗り換えて、二千年以上かけて、こんな夜に届く。
ガラスケースの中の、何か
実体のないものが世代を越えてくる、で思い出した。先日、トニー・アウスラーの展示を見に行った。彼のコレクションの中に、エクトプラズムが具現化したという物体があったのだ。心霊現象で身体から出てくるとされる、あれだ。今度は画面越しじゃなく、現物を見た。ガラスケースの中に、確かに何かが置かれていた。
でも、それが何なのかはよくわからない。本物なのか、そうじゃないのか。たぶん、わからなくていいんだと思う。それを見た人が何を思って、どう感じるか。あるかないかを決めているのは、そっちのほうだ。
考えてみれば、フリュネの裁判官たちも同じことをしていた。目の前にあるものに、自分の信じているものを読んだ。あれが徳に見えた人には、徳があったのだ。
実体がないのに、みんな知っている
ミスリルの鎧。オリハルコン。疲れたときのホイミ。ゲームの中にしかないのに、実物を見た人は一人もいないのに、みんな知っている。名前を聞けば手触りまで浮かぶ。
國體、という言葉もそうだったんじゃないかと思う。戦前、誰でも知っていた言葉なのに、中身をきちんと説明できる人はいなかったらしい。それでもその言葉は働いた。人を動かし、国を動かした。あれも記号だったんだと思う。読めば何かが立ち上がる。中身がなくても立ち上がる。むしろ中身がないから、誰でも自分の辞書で読めた。
「内面の徳は外見の美として表れる」を笑えない。あれは、当時の人にとって完成した論理だった。じゃあ僕がいま完成した論理だと思っているものは、二百年後にどう見えるんだろう。
記号は、つながりたがっている
以前の僕は、絵は「絵」そのものを見るものだと思っていた。写実的な絵はすごいね、上手だね、くらいしか思っていなかった。展示室を三十分で出て、それで見たつもりになっていた。何年も、そうやって通り過ぎてきた。もったいなかった。本当にもったいなかった。あの絵には全部あったのだ。腕輪も、リボンも、脱げたスリッパも。目には映っていた。読めなかっただけだ。
もっと若いときに知っていたら、と思う。楽しいことがどれだけあっただろう。
前にも書いたけど、密教や梵字も同じだ。一文字が仏を意味し、その仏が方角を持ち、色を持ち、他の仏とつながっている。膨大な記号がそれぞれ結びついて、一つのイメージを作る。読める人には、あの一文字が宇宙まで開く。読めない人には、変わった形の文字でしかない。
腕輪も、脱がされた服も、ガラスケースの中身も、梵字の一画も、たぶん構造は同じだ。実体があるかどうかじゃない。読める人がいるかどうかだ。
でも、読めればいいという話でもないのかもしれない。何も知らずに「すごいね」と言っていたころの絵は、あれはあれで何かではあった。今の僕はもう、あの見え方には戻れない。得をしたのか、何か手放したのか、正直よくわからない。辞書が一冊増えるたびに、前に見たものが少しずつ違う顔になる。それがうれしいような、落ち着かないような。
オランピアは、まだこちらを見ている。腕輪をつけたまま。何を思っているのかは、わからない。