華厳思想の「事事無碍」とは、世界に存在するすべての出来事や存在が、互いに隔たりなく関わり合い、響き合っているという考え方です。私はこの考え方にとても惹かれています。
「事事無碍」は、世界をバラバラな要素の集まりではなく、相互に響き合う全体として捉えます。いま私が考えていることも、遠い過去の出来事や他者の選択、社会の歴史、自然の営みが折り重なった結果として生まれている。そう思うと、「私が考えている」というより「世界が私を通して考えている」と言った方が近いのかもしれません。
たとえば、いま私が書いているこの文章も、本当に私が考えて書いているのかは怪しいものです。そもそもなぜこの文章を書こうと思ったかというと、「あなたが思う哲学について書いてみたら?」と提案してくれた人がいたからです。「事事無碍」のことを知ったのも、たまたま落合陽一さんが動画で話しているのを聴いたからでした。
こうして「たまたま」がつながった結果、今この文章が書かれています。きっとほかにもいろいろな要素やきっかけがあって、そうしたすべての流れの上に成り立っているのです。そう考えると、「自分が考えている」というより「考えが私を通して生じている」と言った方が正確かもしれません。
この気づきは、私の「自由意志」への見方を変えました。以前は「自分の意思で決めている」と信じていましたが、いまでは「すべてはつながりの中で決まっている」と思うようになったのです。これまでは「私」という境界がはっきりあって、自分が主体として動いていると思っていました。しかし実際は、世界との結び目のような存在にすぎないのかもしれません。自分を孤立した点として捉えるのではなく、つながりの結節点として見る方が、むしろ世界と調和して生きられるように感じます。
では、「私」という存在はどこにあるのでしょうか。自分と他者、自分と世界を分ける境界は、本当に実在するのだろうか。ここから浮かび上がってくるのは、「個人ってなんだろう?」という問いです。
この問いに取り組むとき、私が行き着いたのが「分断はない」という感覚でした。すべてがつながり合い、互いに映し合いながら存在している。次の記事では、この感覚についてさらに深めていきたいと思います。