前回の記事の続きです。「人はそれぞれ違う世界を生きている」と気づいたとき、新しい問いが生まれました。では、なぜ私たちは「一つの世界」を共有しているかのように感じるのだろう?
この問いに挑戦した哲学者のひとりが、17世紀ドイツの哲学者ライプニッツです。彼は世界を「モナド」と呼ばれる無数の単位から成り立つと考えました。モナドとはライプニッツが考える「部分をもたない最小の単純実体」で、それぞれが自分だけの視点で世界を表象している。しかもモナドには「窓がない」。つまり、他のモナドと直接やりとりすることはできないのに、なぜか世界は全体として調和している。
この説いに対し、ライプニッツが示した答えは「予定調和」という考え方です。曰く、「神は、世界を創造する時点で、あらゆるモナドの展開をあらかじめ調整している」。オーケストラにたとえると、楽器たちがそれぞれ独立して演奏していても、最初から一つの楽譜に従っている。だからこそ、全体として美しい交響曲が完成する。神は自ら楽譜を書き、指揮者としてタクトを振っているのです。それにより、各モナドが自分のパートを演奏しているだけで、一つの調和した世界になっていく。
では、神はどのように世界を調整しているのでしょうか。ライプニッツは、「神は無数の可能的世界の中から最善世界を選び、その中でモナドが矛盾なく調和するように設定した」といいます。
ここで、また新たな疑問が湧いてきます。「最善世界? この世界が? こんなにひどいことがたくさん起きているのに?」。この問いに対しても、ライプニッツはちゃんと回答を用意しました。
曰く、神は無限にある可能的な宇宙のなかから、この一つを選び取った。神は「知恵によって最善を知り、善意によってそれを選び、力能によってそれを実現する」存在だから、その選択には十分な理由がある。神に選ばれたこの世界は、必然的に最善である、と。
もちろん、この世界には災害もあれば戦争もある。悪や不条理に思えることは日常に溢れています。しかしそれは、ライプニッツによると「より大きな善のために神が許容した要素」にすぎないとのこと。私たちには悪に見える出来事も、神の視点からは全体の調和を成す一部であり、最善世界を構成するために必要なものなのだそうです。
ここまで読んで、あなたはどう思いましたか? 「そんなはずはない!」と思いましたか? それとも「なるほど」と思いましたか? はじめてこの文章を読んだ時、私は「えええ?」と驚き、「またまた、ライプニッツってば。うまいことごまかそうとしても、さすがにこれは無理筋すぎるでしょ」と思いました。しかしその時、唯識や環世界を思い出したのです。そっか、私が認知する世界と、神が認知する世界は違うんだ…。
人間は世界のごく一部しか見られません。だからこそ、目の前の災害や病気を「悪だ」と判断してしまう。「なぜこんな理不尽が起きるのか」と思ってしまいます。
しかし神は、過去も未来も含めた全体像を一望できる存在です。その完全な視点からは、この世界こそが最善であり、悪すらも計画の一部となる。「全体を見渡す(神の)視点から見ると、それも最善の一部なのかもしれない」と思考をスイッチすると、ちょっと見方が変わります。
ライプニッツの「最善世界」を知ったことで、「悪や不条理も全体の調和の中では意味を持つのだ」と考えられるになりました。個人の目からは理不尽にしか見えないことも、神の視点からすれば全体の最善を成す要素なのかもしれない。自分の身に降りかかった災難も、「なぜこんなことが」と思うのではなく、何かのつながりの中にあると思えるようになったのです。
この「つながりの中で出来事が意味を持つ」という感覚は、やがて仏教の華厳思想、とりわけ「事事無碍」という考えに出会ったときに、さらに深くなりました。この話は、また次回で。