【テツガクを生きる】4. 世界はひとつじゃない

哲学

ほかの人と話していて、どうしても伝わらないときがあります。哲学カフェでは決して珍しいことではありません。
ある人が自分の考えを筋道立ててわかりやすく説明しようとしても、相手にはまったく届かない。それどころか「あなたの話は全く理解できない」と怒り始める。すると、説明していた側も「なぜわかってくれないのか」と苛立ち、声を荒げてしまう。

こうなってしまうと話は平行線をたどり、理解どころか互いの溝を深めるばかりになってしまいます。同じ言葉を使い、同じテーマについて話しているはずなのに、どうしてもうまく交わらないーー。こうしたことは、議論の場だけで起きるわけではありません。もっと身近な場面でも、「私たちは同じ世界に生きているの?」と尋ねたくなるようなことが起きます。

たとえば、父とのやりとり。父は家に届いた郵便物を見て、不要だと思ったらその場で次々と捨ててしまう。なかには重要な手紙も混ざっているので「残しておいて。私があとで確認するから」と頼みますが、気づけばまたゴミ箱の中に封筒がある。私は途方に暮れながら、父に「どうして残しておいてくれないの?」と聞きました。しかし父は、「だって要らないものだろう」と言うのです。

なぜ(父から見て)不要なものがそこにあることが、彼にとってそんなに耐えがたいのか。なぜそれほどまでに「捨てたい」という衝動に突き動かされるのか。私にはとても理解できません。

こんなとき、私はユクスキュルという生物学者の「環世界」という考えを思い出します。ユクスキュルは、一匹のダニの世界を描きました。ダニは温度、匂い、光というわずかな刺激だけを手がかりに生きています。私たち人間が感じる豊かな世界も、ダニにとっては「温かい皮膚の匂い」と「温かさ」でできている。生物はそれぞれ、自分の感覚に基づいた「固有の世界」を生きているのです。

唯識という仏教の思想も、似たことを語ります。「世界は外にあるのではなく、認識が世界をつくっているのだ」と。私にとって郵便物は「後で確認すべき重要なもの」ですが、父にとっては「今すぐ片付けなければならないもの」。同じ対象でも、認識の仕方が違えば、そこに立ち現れる世界はまるで異なります。その視点で父の言動を見直したとき、父の世界が理解できないにせよ、「そういうこともあるかもしれない」と思えるようになりました。

かつての私は、「世界はひとつで、みんなが共通の真実を見ている」と信じていました。だからこそ、共通の真実を見つけようと徹底的に議論し、相手と理解し合えないときには苛立ちを感じました。しかし環世界や唯識に触れて気づいたのです。人はそれぞれ違う世界を生きている、と。

そう思えるようになってから、私は少し「いい加減」になりました。相手とわかりあえないことがあっても、「私とあなたは違う世界を見ているのだから仕方がない」と深追いしなくなったんです。私には理解できませんが、父の世界には父なりの正しさがある。たとえば、不要だと思った郵便物は捨てるべき、というような。

こうして私は、世界がひとつではないことを知りました。でも、それで終わりではありません。ここからまた新しい問いが生まれます。人はそれぞれ違う世界を生きているとして、その無数の世界はどうやってひとつの現実を形づくっているのだろうか。互いに交わらないはずの視点が、なぜ「一つの世界」を映し出しているように見えるのか。
17世紀から18世紀にかけて、この疑問を解いてみせた哲学者がいました。ライプニッツです。彼の「モナドロジー」は、多様な世界の視点と全体のつながりをめぐる、不思議な答えを提示してくれるのです。次回は、ライプニッツの思想についてご紹介します。

井上 真花(いのうえみか)

井上 真花(いのうえみか)

有限会社マイカ代表取締役。PDA博物館の初代館長。長崎県に生まれ、大阪、東京、三重を転々とし、現在は東京都台東区に在住。1994年にHP100LXと出会ったのをきかっけに、フリーライターとして雑誌、書籍などで執筆するようになり、1997年に上京して技術評論社に入社。その後再び独立し、2001年に「マイカ」を設立。主な業務は、一般誌や専門誌、業界紙や新聞、Web媒体などBtoCコンテンツ、および広告やカタログ、導入事例などBtoBコンテンツの制作。プライベートでは、井上円了哲学塾の第一期修了生として「哲学カフェ@神保町」の世話人、2020年以降は「なごテツ」のオンラインカフェの世話人を務める。趣味は考えること。

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