モヤモヤは種のようなもの。抱えているうちに、やがて芽を出し、思考へと育っていきます。
違和感をスルーせず、「これはどんな意味を持つのだろう」と大切に持ち続ける。その違和感が別の問いを呼び、答えを求めて歩き始めた道の先に、見知らぬ世界が広がることもあります。
前回の記事で書いた例では、コロナ禍で「葬式は控えるべきだ」という空気に違和感を覚えた哲学者の言葉から、「生きている人だけに価値があるとする社会とは何なのか?」という大きな問いが生まれました。アガンベンが考え始めたきっかけも、違和感、引っ掛かりだったのではないでしょうか。
問いは、植物に水を与えるように、少しずつ言葉をかけることで枝葉を広げ、考えを豊かにしてくれます。すぐに答えが出なくてもかまいません。むしろ「まだわからないけれど考えてみたい」という余白を許すことで、思考は自由に育っていくのです。
思考のタネの育て方
実例をあげて説明しましょう。あるとき友人が「私は長生きしたくない。『PLAN 75』に賛成だわ」と言ったのです。『PLAN 75』は、同名の映画に登場する制度で、75歳以上の国民に「自ら希望すれば安楽死できる」という選択肢を与えるもの。彼女はきっぱりと「もし導入されたら、私は迷わず希望する」と宣言し、私の中に大きなモヤモヤが広がりました。
彼女の言葉を聞いて感じたモヤモヤの正体は、なんだったのか。しばらくはその感覚を保持したまま、じっくり味わっていました。そこから浮かんできたのは「なぜ」という疑問。その続きは何なのかを探り始めます。「なぜ彼女は長生きしたくないのか」「家族を愛しているのに、なぜ別れを躊躇しないのか」「とても研究熱心な人なのに、なぜもっと時間をかけて研究したいと思わないのか」等々。
その疑問を1つずつ彼女に問いかけて、回答を聞きました。しかし、問いを重ねてもモヤモヤは消えず、私の中には依然として「なぜ」が残り続けていました。こんなときは、対話のなかで理解することをいったん諦め、保留します。
こうやって抱えた問いは、いろんな場所で揺すってみます。先に挙げた例の場合、最初にすべきはその映画を見てみることでしょう。哲学カフェのテーマにして、みんなで考えてもらうのもよいかもしれません。気心の知れた友人に投げてみることもあります。あるいは、関係ありそうな本を探して読み、印象的な文章をメモしておく。映画について語り合う場があれば、この疑問をぶつけてみる。ときには生成AIに問いかけて、思いがけない角度の答えを返してもらうこともあります。
そうして問いにあれこれ揺さぶりをかけていると、ぱっと視界が開けることがあります。哲学者の著作を読んでいて「なるほど、そうかもしれない」と思える言葉に出会うこともあれば、友人とのやりとりの中でふっと気づかされることもある。食事をしながら家族と話している時、思わぬヒントが降ってくることも。
視界がひらけたと感じたら、あとはその方向に向かって歩き出すだけ。関連する本を読みたくなったり、研究者や実践者の話を聞きに行ったり、ひとりで考えてみたり。そうしているうちに、もとのモヤモヤは影をひそめ、そこから広がった世界のほうに集中していきます。こうして具体的な出来事を離れ、解釈のレベルで考えるようになると、思考は一気に広がり、楽しくなっていきます。
世界の別の姿を発見する
問いを育てることは、正解を探すことではありません。問いを抱えているうちに、世界がふと違う角度から見えてくる。それまで気づかなかった表情を、世界がこちらに見せてくれる。
同じ出来事でも、見方が変わればまったく別の姿を現すことがあります。それは「世界との関わり方」を変えるというより、むしろ「世界の見方が変わる」感覚。そこに新しい景色を発見するという体験がとても刺激的で、だから私はモヤモヤをタネに思考を育てるという楽しみが手放せないのでしょう。
問いを育て続けていると、やがて日常を超えて大きな哲学的な考え方に触れることがあります。たとえば第一回の記事で紹介した「環世界」の思想や大乗仏教の「唯識」思想、華厳経に由来する「事事無碍」の世界観。こうした考えに出会うことで、世界の見方が大きく変わりました。次の章では、そうした思索の先に開けた景色を紹介していきたいと思います。