アニメ版『進撃の巨人』を見終わった。全94話、ほんっとに長かった。実際に視聴した時間も長かったが、気分的にもとても長かった。あまりに長すぎて、途中で視聴休み期間を設けたほど。ラストに近づくにつれ、相方と「あと少しだから」と励まし合いながら、なんとか最終回にたどり着いた。見終わったあとに感じたのは、達成感と疲労感、それとやるせなさだった。『鋼の錬金術師』もそこそこ長かったが、進撃ほど長い(≒しんどい)と感じなかったし、最終回を見終わったあとカタルシスがあった。しかし進撃にはカタルシスが皆無。見終わった後、ただ困惑のなかに放置された気分を味わいながら茫然としていた。
この感覚は何かに似ている。そう、何度も挑戦しては途中で挫折する『罪と罰』(ドストエフスキー)だ。何度ページを開いても、途中から先に進めない。体中が重くなり、苦しくなって本を閉じる。それと似た感覚だ。
ここでは、なぜそんなに辛かったのかということを考えつつ、いくつか残った疑問について考えていきたい。例によってネタバレのリスクがあるため、ここから先は同作品を読んだ人かアニメ版を視聴した人のみ進んでいただきたい。そうではない方はここで回れ右したあと、速やかにコミック版を手に入れるか、配信サービスで視聴した後に必ず戻ってきていただきたい。
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疑問その1 自由を求めつつ、決定された未来に縛られた
主人公エレンは、進撃の巨人の継承者である。進撃の巨人には、「未来の継承者の記憶を覗き見できる」という能力があり、これを使えば未来に行ける。未来の継承者の記憶を見れば、そこで何が起きるかわかるため、あらかじめ準備しておけるという点でとても有利な能力ではある。ところが、エレンは最後の継承者であるため、未来の継承者が存在しない。ではこの能力は無駄かというと、そうではない。巨人たちは、過去の継承者の記憶を引き継ぐ。進撃の巨人に関しては、過去の継承者のなかに未来の継承者の記憶がある(このあたりややこしいので、慎重に読んでいただきたい)。つまり、エレンの前の継承者であるグリシャ・イェーガーの記憶には、エレンの未来の記憶が含まれているのだ。そのため、エレンは自分の未来を見ることができることになる。
さらにエレンは、進撃の巨人の記憶継承と始祖の巨人の力を通じて、過去の出来事に干渉しているようにも見える(EX. 巨人に母親を食べさせたことを告白するシーン)。自分が望む未来のため、過去の巨人を操っていたようだ。つまりエレンは、過去や未来を見つつ、そのなかでコントロールを発揮するという複雑な活動を始めた結果、彼のセリフにもあった「だんだんわけがわからなくなってきたんだ」という状態になった。そりゃあそうだろう。時系列、つまり因果関係でストーリーを理解する習慣のある人間が、時間軸を自由に移動するのだから、当然そうなる。それは一見、とても便利な能力ではあるが、一方で自分を壊すリスクにもなる。
もうひとつの問題が、「未来が見える」ということが「未来が決まっている」ということになるということ。エレンはなにより自由を愛しているが、その自由が奪われ、決まった道しか歩けなくなるのが「進撃の巨人」である。見えてしまった時点で、もう決定している。そのことが、エレンを苦しめていくのだ。
であれば、エレンは完全に意志を奪われたのか。自由を諦めて、運命に任せたのだろうか。どうもそう思えないところもある。たとえば、アルミンとの夢のなかで、エレンはふと「世界を救うためでも、仲間を守るためでもなく、本当はこの風景が見たかっただけなんだ」と漏らした。壁の外へ出て、世界と戦い、地ならしまで実行するという、あらかじめ決まっていたはずの一本道の裏側に、こんなにも単純な、個人的な望みが隠れていた。すべてが決定されている中でも、そこに「本当はただこの風景が見たかった」という意思が残っていた。決定論に完全には呑み込まれきらなかった小さな証だったのかもしれない。
疑問その2 捨てることでしか成し遂げられないもの
作品のなかで「何も捨てられない者は、何も成し遂げられない」というセリフが何度も繰り返された。そのセリフは主に、友人を助けられない時、仲間を殺さなければならない時によく使われる。考えようによっては、最後にエレンが捨てたのは自分自身だった。しかし、本当に捨てなければならなかったのだろうか。
このとき思い出したのが、『鋼の錬金術師』の「等価交換」である。最終回で、エドは、自分にとって本当に大切なものを差し出すことで、弟を取り戻した。そこには納得できる交換があった。しかしエレンの場合、差し出したものがあまりに大きすぎる。自分自身だけでなく、無数の人間の命まで巻き込んでいる。そのため、「それは本当に必要な犠牲だったのか」という疑問が残ってしまう。以前、エレンは「決めなければならない時はお前(アルミン)に任せる」といったことがあった。最後の選択こそ、アルミンに決めてもらうべきではなかったか。
疑問その3 エレンが望んだ未来とは
エレンは自分を捨て、仲間が幸せになれる未来を選んだ。始祖の巨人とユミルを消すことで、巨人そのものを消し、巨人の呪いから仲間を解放した。この結末を見た時、率直に「よかった」と思った。誰も継承者のために自分を食べさせるといった辛い最期を迎えることはなくなり、13年で寿命が尽きることもなくなった。コニーのお母さんは巨人から人に戻ることできた。誰も食われない、誰かとの別れを強いられない世界が成就したことは、素直によかったと思う。
しかし、最後の戦いが終わった後、アルミンやライナー、アニが人間のもとに戻ってきてみた風景は、自分たちに向けられたたくさんの銃口だった。さっきまで「人間のために戦ってくれている」として応援してくれた人間たちが、戦いのあとは「お前が巨人でないという証拠を見せろ」と迫る。このシーンを見て、私は心底がっかりした。人間の愚かさを見せつけられた気がしたのだ。
エレンが望んだ未来は、そう長く続かない。最終回では、そのことを予感させるシーンがいくつかあった。人間の心が変わらない以上、戦争や差別は繰り返されるだろう。エレンはそんなことを知らずに自分を犠牲にしながら友人の未来を選んだのか、それとも知った上で自分ができる限りのことをしたのか。アルミンが「ミカサの気持ちを知っていてあんなこと(お前なんて大嫌いだ)を言ったのか」と聞かれたとき、それに対して「ミカサには幸せになってほしい。俺を忘れて幸せに」と答えた後、アルミンが「そうだね、ミカサは案外すぐにエレンを忘れて誰かと恋をするだろう」と言うと、「それはいやだー」と言った。むしろそちらのほうが本音ではなかったか。自分がいて、仲間が幸せになれる世界を望まなかったのは、なぜなのか。
こうして振り返ると、疑問その2で感じた違和感と、この疑問その3での違和感は、実は同じ根から生えている気がする。エレンは、最後の選択をアルミンに委ねることもしなかったし、自分がいる未来を選ぶこともしなかった。彼はずっと、誰かに委ねること、そして自分がその場に残ることを、最後まで拒み続けた人物だったのではないか。それが彼のいう「自由でありたい」の結果だとしたら、あまりにも哀しい。
最終回を見た後の後味の悪さは、この3つの疑問によるものだった。作品や作者がこの疑問に対してなにか答えを提示しているわけではないので、この先わたしがひとりで考えていかなければならない。自分のなかでなにか決着がつけば、後味の悪さは解消されるのだろうか。いや、解消されなくてもよいのかもしれない。ザワザワした気持ちをそのまま持ち続けることこそが、作者の目指したことなのかもしれない。