【#0020】「選択肢の幅を広げたい」ワーキングマザー黒川富士子さんの子育てポリシーとは

仕事の関係で知り合ったのが10数年前。某メーカーの製品PR担当だった黒川さんは、とても品が良くて頭のいい女性という印象でした。その後、Facebookでつながり、私が参加したイベントに応援に来てくださったりと、プライベートでのお付き合いが始まりました。そこで今回、「ぜひを受けて欲しい」とお願いしたところ、「いいですよ。でも私なんてなにも話せることないですよ」とのこと。ところがフタを開けてみると、とんでもない!思った以上にネタの宝庫でした……。そんな黒川さんのインタビュー、ぜひご覧下さい。

井上  黒川さんと知り合ったのは、10数年前ですよね。当時は独身だった覚えが。それから結婚されて、お子さんもいらっしゃるんですね。

黒川 はい、そうなんです。結婚したのは10年前で、36のとき。でも、結婚してすぐに一人暮らしになりました(笑)。夫の仕事の都合で結婚して2年半、遠距離結婚だったんです。

井上  なんと! 仕事を辞めようとは思わなかったんですか?

黒川 仕事が大好きだったから、仕事を辞めるという選択肢はなかったですね。そういえば、子どもを産んだときも辞めようとは思いませんでした。息子はかわいくて、かわいくて、息子が保育園に行くときは彼より私のほうがたくさん泣いちゃうぐらいだったんだけど(笑)、辞めたいと思ったことはありませんね。

井上 なぜそんなに仕事が好きなんですか?

黒川 たぶん私、いろんな軸を持っていたいタイプなんです。仕事も趣味も好きだし、人と会って話をするのが好き。だから、そういうものを手放して子育てに専念するという気持ちにはならなかったのかもしれません。あと、うちの実家が特殊だったから。

井上 どんな風に?

黒川  うちはもともと親が会社を経営していて、お金には困っていませんでした。それが突然、会社が倒産し、全くお金がなくなってしまって。それまで私立の小学校に行っていたんですが、お金がないからとても続けられないと言われ、でも私はどうしても変わりたくなくて、奨学金を受けながら学校に通いました。

井上 そんなことがあったんですか! 

黒川 小学校の頃はまだ小さかったから、どういう事情でこうなったのかってことはあまりわからなかったんだけど、大きくなっていくうちにだんだん「ああ、うちはお金がなくなったんだなあ」って。だからずっと、お金はちゃんと自分で稼がなくちゃって思っていました。それもあって、仕事を辞める気にはならなかったんでしょうね。

井上 黒川さんの芯の強さは、その頃鍛えられた成果なんですね。納得です。お仕事はずっと製品PRですか?

黒川 はい、ずっと。思えば、高校の時から広報誌つくっていました(笑)。すごいですね、ずっとPRに携わっているだなんて。もともと文章を書いて発信するのが好きで、私の書いた文章で人の心が動くのが嬉しいという気持ちがありました。98年頃、会社のメルマガを書いていたんですが、ただ製品をPRするだけではつまらないから、ストーリー仕立てにしようと思って。例えば、うちの製品を使っているキャラクターの恋愛ストーリーとか。

井上 ええっ、恋愛ストーリーですか?

黒川  はい、そうです(笑)。月2回発行で1クールが3ヵ月だから、だいたい6回で完結するお話。結構本気で取り組んでいて、毎日通勤電車のなかでネタを考えたりして(笑)。

井上 それはすごい!かなり反響があったのでは?

黒川 ありましたよ。「今回のエンディングはよかったですね」みたいな感想メールが来ると、嬉しかったですね。なかなかないでしょう?企業のメルマガに感想メールを出すなんてこと。

井上 ありませんよ。よほど伝えたかったんでしょうね。読者数はどれくらい?

黒川  最高で18万人ぐらいかしら。それだけの人が読んでいるものだから、私、万人受けするサザエさんみたいなものを目指していたんです。今、読み返してみると、ちょっと笑っちゃうようなお話なんですけど、でもこのメルマガは私の財産ですね。

井上  ママさんになられたんですよね。いくつのときにママになったんですか。

黒川  40のときです。とにかく子どもが欲しくて。でも結婚したのが36で、しかも遠距離結婚でしたから、かなり不利な条件のなか、妊活がんばったんですよ。その甲斐あって、なんとか37で妊娠しました。ところが、残念ながら流産してしまって。そのときそばに夫はいないから、ひとりで病院に行って診てもらったんですが、お医者さんから「流産しています、いつ手術をしますか?」と言われ、最初は意味がわからなくて。

井上 ああ……それは本当にお気の毒です。

黒川 天国から地獄って、こういうことをいうんだなって。でもどうしても子どもが欲しくて、38でまた妊娠したんです。でも、そのときも流産してしまって。そのときは私、「なんで私にばかりこんなことが起きるんだろう。これはなにか意味があるに違いない」って考えてしまって。今にして思えば、そんな風に考えることで悲しみを紛らわせていたんでしょうね。それでも私、やっぱり諦めきれなくて。39で無事、妊娠したんですが、その後調べてみたら、私、不育症だったんですよ。

井上  不育症って、おなかの中で赤ちゃんが育ちにくいんですよね。どんな治療をするんですか?

黒川 薬を飲みます。場合によっては注射も打ちます。それも、自分で1日2回。実は治療を始めたのは、第二子が欲しかったから。長男出産後、治療をしながら妊活を続けたのですが、それでも流産してしまって。合計、5回流産しました。

井上  5回! それはつらすぎる……。

黒川  その頃はすでに40を超えていたので、年齢のことも考えて、第二子を諦めることにしました。だから私、この話をみんなに伝えたくて。私と同じ思いをしている人、きっといると思うんです。でも、不育症ってことを知らないと、何年も苦しい思いをすることになるじゃないですか。もしそのことを知っていたら、治療を始めたり、体質改善したりしてなんとかできたかもしれない。

井上 そうやってやっと生まれたお子さんなんですね。でもその甲斐あって、とても可愛いお坊ちゃんですよね。いつもfacebookでお写真、拝見しています。

黒川 はい、私史上、最高のクリエイティブだと思っています(笑)

井上 確かに! お子さんに対して黒川さんが「こうなってほしい」という希望はないんですか?

黒川 ありませんね。子どもも一人の人格なので、親が決めてはいけないと思っています。自分で選んでほしいから、選択肢を広げるためにいろんなものを見せてあげようと思っています。

井上 そういえば、よくいろんな場所に連れて行かれていますよね。科学博物館とか、ゴスペルとか?

黒川 はい、ゴスペルは私の趣味なんですが、彼も興味を持って「一緒に歌ってみたい」というので、親子でレッスンを受け、一緒にライブもやりました! 親子で歌えて、とても幸せでしたよ。

井上 親子でゴスペルってかっこいいな。

黒川 ゴスペルは私が好きだから一緒にやったけど、基本はなんでも自分でやってみてねって思っています。そして、自分が納得できる人生を歩んで欲しい。夫はよく「こんな時代だから、自分の力で生きられるようにならなくては」と言いますが、私もその意見に同意です。

そのために親がやれることは、いろんなものを見せることと、いろんな人に会わせること。息子も私と同じ、人見知りしないタイプなので、できるだけたくさんの人に会わせていろんな価値観を学ばせています。その経験のなかで「世界にはいろんな考えの人がいるんだよ」ってことを体で覚えてほしい。きっと、彼はできると思います。だって彼自身、枠に収まるような子ではないですから(笑)。

井上 真花(いのうえみか)インタビュアー

投稿者プロフィール

有限会社マイカ代表取締役。PDA博物館の初代館長。日本冒険作家クラブ会員。

長崎県に生まれ、大阪、東京、三重を転々とし、現在は東京都台東区に在住。1994年にHP100LXと出会ったのをきかっけに、フリーライターとして雑誌、書籍などで執筆するようになり、1997年に上京して技術評論社に入社。その後再び独立し、2001年に「マイカ」を設立。

主な業務は、一般誌や専門誌、業界紙や新聞、Web媒体などBtoCコンテンツ、および広告やカタログ、導入事例などBtoBコンテンツの制作。

プライベートでは、井上円了哲学塾の第一期修了生として「哲学カフェ@神保町」の世話人、2020年以降は「なごテツ」のオンラインカフェの世話人を務める。趣味は考えること。ライフワークは「1000人に会いたいプロジェクト」

井上真花の公式ホームページはこちら

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