「なぜ国民は政治に無関心なのか」というテーマについて考える機会があった。このテーマには落とし穴がある。「無関心なあの人たち」を、「関心のある私たち」が分析し、裁く会になってしまう可能性が高いからだ。選挙に行かない人、よくわからないまま投票する人を名指して非難したくなる気持ちの奥に、ちょっとした優越感が混じっていないと言い切れる人は、どれくらいいるだろう。
「無関心」は、事実に合っているのか
そもそも、国民は政治に無関心なのか。政治離れが進行しているという気はするが、本当にそうなのだろうかと思い、データを確かめてみた。
直近の衆議院選挙(2026年2月)の投票率は56%台。たしかに高くはない。有権者の四〜五割は投票所へ行かない。とはいえ、「最近どんどん下がっている」という実感は、データと違う。日本の投票率が一段ガクッと落ちたのは1996年ごろで、底は2014年。そこからはむしろ横ばいで、直近はわずかに上向いてすらいる。「政治離れが進行中」という物語は、ここ十年の事実には、そぐわない。
しかも「国民の無関心」の正体をよく見ると、それは国民全体の話ではなく、世代の断層だった。二十代の投票率は四割を切る一方、高齢層は六〜七割。ひとくくりに「みんな無関心」なわけではなさそうだ。
歴史家のユヴァル・ノア・ハラリは「真実は物語に負けやすい」と言う。真実は複雑で、調べるのに手間がかかり、嫌な思いをすることもある。それに比べて物語は単純で、気持ちがいい。「無関心な国民」も、たぶんそんな物語のひとつだった。何より私自身が、データより物語のほうを信じていたのだ。
無関心の反対は、「関心」ではない
では、問いを立て直そう。無関心の反対は、何だろう。言葉通りに考えるなら「関心」ということになるが、そうだろうか。
ニュースを追いかけること(関心)と、自分の足元から声をあげること。このふたつは、微妙に違う。関心はあるのに動けない人もいれば、政治のニュースには疎いのに自分がいる場所で状況を変えることには積極的な人もいる。
ドラマ『御上先生』を思い出す。松坂桃李さん演じる文科省の官僚が、高校の教壇に立つ話だ。役のモデルになった教育者・工藤勇一さんが繰り返すのは、「自主性」ではなく「主体性」だという。言われたことを進んでやるのが自主性なら、何をやるかを自分で引き受けるのが主体性。無関心の反対は、関心ではなく、この主体性ではないか。
民主主義は、面倒に耐える器
長山靖生さんの『バカに民主主義は無理なのか?』(光文社新書)を読んだので、それも含めて考えてみた。長山さんの言う「バカ」とは、学歴や知識の量ではない。議論や対立というめんどうを嫌い、「頭のいい誰かがパパッと決めてくれ」と英雄に丸投げしてしまう姿勢を「バカ」といっているのだ。丸投げしたその瞬間、民主主義で獲得した権利は消える。民主主義が目指すのは、英雄が幸せにしてくれる社会ではない。長山さんに言わせれば、それは愚かで欲張りな私たちが面倒な手続きに耐え続ける「永遠に未達成のシステム」なのだ。
民主主義は、決して有権者に快楽をもたらすシステムではない。だが、この永遠に未達成のシステムにかかわる虚しさに耐えるとき、はじめて「自分ならびに他者の権利」は保たれるのだ。
脳の筋トレをはじめよう
御上先生は、よく「個人的なことは、政治的なこと」というセリフを口にする。
これは1970年前後のフェミニズムのスローガンで、その母体は、女性たちが小さな輪になって家事や暴力といった私的な悩みを持ち寄って語り合う集まりだった。語るうちに「これは私個人の問題ではなく、構造の問題だ」と気づいていく。少し哲学カフェに似ている。
だとすれば、主体性は「関心を持ちなさい」という号令からは生まれない。自分の小さな困りごとを深く掘り下げていくうちに、社会や制度にたどり着く。その先に、ようやく政治が自分ごとになるのだろう。
御上先生がよく口にしていたもうひとつのセリフは「考えて」だった。考え続けるのはしんどい。脳に負荷がかかり、手放したくなる。だからこそ「できる」政治家を求めるし、問題がおきればその政治家のせいにしたい。民主主義をダメにするのは、そういった人間の心理だ。
私は、面倒に耐える民主主義に対して、さほど悲観していない。要は、「考えること」に慣れていけばいいからだ。考え続けるには、体力、筋力がいる。だからこそ、筋トレできる場所やノウハウが必要だ。それが、たとえば、哲学カフェなのかもしれない。