「生産性」で人の価値は測れるのか

スタッフコラム

先日、友人がこんなことを呟いた。
「少子高齢化の時代、社会の役に立たない高齢者の存在は若者の負担になるだけ。姥捨て山という考えは、悪くないのかもしれない。僕自身、時期を見て判断したい」
この言葉を聞いて、私は言葉を失った。これは単なる厭世観ではない。少子高齢化という構造的課題に真摯に向き合った末の、自己否定という苦しい結論なのだ。

友人の言葉の背景にあるのは、「生産性」という単一の価値基準だろう。働いて税金を納め、経済活動に貢献できる者だけが社会に居場所を持つ。そうでない者は「負担」である――こうした価値観は、いつの間にか私たちの思考に深く浸透している。

しかし、この物差しで人間を測ることには、根本的な問題がある。
生産性という概念は、人間を短期的なアウトプットを生む存在として定義する。身体能力が衰え、労働市場から退いた高齢者は、この基準では「非生産的」とされる。だが、長い人生で培われた経験知、歴史的洞察、危機を乗り越えた知恵――これらの「無形の資産」は、どこに計上されるのだろうか。

村社会において、長老は単なる「過去の人」ではなかった。その存在は、共同体が同じ過ちを繰り返さないための記憶の器であり、危機における羅針盤だった。
現代社会は、こうした役割を見失っている。効率性と短期的成果ばかりを追求する中で、私たちは社会のレジリエンス(回復力)を削いでいるのではないだろうか。過去の災害の記憶、経済危機の教訓、人間関係の知恵――これらは数値化できないが、確実に社会を支えている。

では、問いたい。もし生産性だけがすべての価値を決めるなら、赤ん坊の存在をどう説明するのか。
赤ん坊は労働しない。多大なケアを必要とし、短期的には「負担」でしかない。それでも私たちは、彼らを無条件に受け入れる。なぜか。それは、人間社会が本来、相互扶助と共感を基盤とする「ケアの共同体」だからではないか。

ケアを必要とする存在を包摂すること。これは人間社会の本質であり、すべての人が人生のどこかで「ケアする側」にも「ケアされる側」にもなるという事実を認めることだ。効率のみを追求し、多様な存在を排除することは、この相互扶助の機能を破壊する。

もちろん、少子高齢化による財政負担や社会保障の持続可能性という問題は、現実のものだ。この課題から目を背けることはできない。
しかし、その解決策が「非生産的な人間の排除」であってはならない。それは倫理的に許されないだけでなく、社会のレジリエンスをさらに損なう。私たちに必要なのは、高齢者の持つ無形資産をどう活用するか、世代間でどう支え合うか、という創造的な対話ではないだろうか。

たとえば、高齢者が若い世代の子育てを支援する仕組み、職人技や地域の歴史を伝承する場、意思決定に多様な世代の経験を組み込む制度――こうした試みは、すでに各地で始まっている。

友人よ、あなたが背負った自己否定は、社会の歪んだ価値観を真摯に受け止めすぎた結果だと私は思う。
あなたの存在そのものに価値がある。それは生産性とは無関係に、ただそこに在ることの尊さだ。そしてあなたがこれまで生きてきた中で積み重ねてきた経験や知恵は、誰かにとっての光になりうる。

私たちは、あなたの存在そのものこそ大切で、それを必要としている。どうかそのことを忘れないでほしい。

井上 真花(いのうえみか)

井上 真花(いのうえみか)

有限会社マイカ代表取締役。PDA博物館の初代館長。長崎県に生まれ、大阪、東京、三重を転々とし、現在は東京都台東区に在住。1994年にHP100LXと出会ったのをきかっけに、フリーライターとして雑誌、書籍などで執筆するようになり、1997年に上京して技術評論社に入社。その後再び独立し、2001年に「マイカ」を設立。主な業務は、一般誌や専門誌、業界紙や新聞、Web媒体などBtoCコンテンツ、および広告やカタログ、導入事例などBtoBコンテンツの制作。プライベートでは、井上円了哲学塾の第一期修了生として「哲学カフェ@神保町」の世話人、2020年以降は「なごテツ」のオンラインカフェの世話人を務める。趣味は考えること。

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