政治家にもバズらせる能力が求められる時代になった。炎上も、嘘も、矛盾も、すべては目立つために必要な要素として機能してしまう。以前、「迷惑系YouTuber」が世間を騒がせていたことがあった。とある党が選挙をパフォーマンスの場に変えたこともあった。今でも記憶に残っているぐらいだから、相当インパクトが強かったのだろう。
なぜ目立つことが優先されるのか。人間の情報処理能力には限界がある。インターネットが登場して以来、情報量は爆発的に増大しているが、人間の能力はそれに追いついていない。その結果、何を見ればいいかわからなくなった。ちゃんと見極められないままあちこちのコンテンツをつまみ食いしていると、その痕跡からSNSのアルゴリズムが類似したものを差し出してくる。
アルゴリズムにはプラットフォームの広告収益を最大化するという目的があるから、より強く関心を惹きつけるもの(驚き、不安、嘲笑などの刺激)を優先的に表示する。差し出されたものに手を出せば、またそれをアルゴリズムが読み取り、類似コンテンツを次から次へと提供する。その結果、情報の評価軸が歪んでいく。より刺激の強いものが好まれるようになり、良質なコンテンツが沈んでいく。これは個人の問題ではなく、システム設計の問題だ。
私はライターとして「より多くの人に届けたい」という思いがあり、SNSでも情報を発信している。しかしバズらせるノウハウを利用することには抵抗がある。目立つための刺激は、常にそれより強い刺激との勝負になってしまう。その競争に参加した瞬間、届けたかったものの形が少しずつ崩れていくような気がするからだ。
バズの形式を借りることは、そのゲームのルールを肯定することになる。そのゲームのルールこそが問題だと思っているのに、それに乗ることはできない…そんな抵抗を、私はずっと感じてきた。この課題を解決する方法を、まだ見つけられていない。しかし、ヒントめいたものを感じることはある。
長年、哲学カフェの世話人を務めている。カフェの対話のなかで、ときに言葉にならないものをゆっくり形作っていく中で場が動くことがある。じっくり考えた人がやっと口にした言葉を聴いた時、場全体が動く感覚。別の人が触発され、そのあとを続けていくことで、うっすらと形づくられていく。そんな瞬間を体験することがある。
こういった価値は、バズのなかには現れない。数値化されず、目立たず、拡散されないが、妙に心に残る体験。このなかに、なにか宝が潜んでいる。しかしこの宝の価値は可視化されず、ネットの海の底に眠ったまま取り残される。おそらく多くの人が、生活の中でこういったことを体験しているだろう。しかしこの感覚が言語化されない限り、海の上に浮上しない。
やはりゲームのルールを変えるのは難しい。そもそも、利益を生むプラットフォームを変えることなんてできる気がしない。しかし、すべての価値がプラットフォーム上にあるわけではない。目立つリーダーではなく、誠実に社会のことを考えるリーダーが選ばれる社会を望むのであれば、多くの人がそれを見分ける目を持つ必要がある。
数値化されず目立たず拡散されない価値を伝えていくにはどうすればいいか。「深く響いた」「じっくり考えた」「軸が変化した」という尺度が広がっていくには、それを言葉にする人が必要だ。「バズった」以外の評価軸を、繰り返し言語化していく先に、「バズらない」価値を受け入れる社会が作られていく。
「より多くの人に、よりわかりやすく、より正確に」。この三つを同時に達成することは、おそらく不可能だ。それはバズ文化と同じ「最大化の発想」にもつながりかねない。私が今考えているのは、一人一人に丁寧に届けていくこと。受け取った人がなにか感じたら、次の人に渡すかもしれない。その流れが、やがて大きなストリームになるかもしれない。
すぐには広がらなくても、腐らないものを作ること。目立たない価値を、言葉として世に残していくこと。ルールを変えるために、まず言葉にする。この文章も、その小さな一歩のつもりだ。