「水ラーメン」という名前のYouTuberさんの動画を、ときどき見る。スーパーで生きた魚やカニなんかを買ってきて、水槽で飼うのだ。弱った個体を持ち帰って生き返らせ、ペットのように面倒を見る。もし、途中で死んでしまったら食べる。
初めて見たとき、正直、ちょっとエグいと思った。でも、よく考えると変な話だ。同じスーパーで買ってきたカニを茹でて食べるのはまったく平気なのに。
「飼う」が挟まると……
何が違うんだろう、と考えてみる。行き着く先は「食べる」で同じなのに、あいだに「飼う」という工程がひとつ挟まるだけで、こんなに感覚が変わる。飼うと、たぶんそこに関係が生まれる。名前をつけなくても、毎日水槽を覗けば、それはもうペットになる。関係ができたものを食べることに、うしろめたさを感じるらしい。
似た話を思い出した。昔、学校で豚を飼って、最後にみんなで食べる、という食育の取り組みがあって、賛否が分かれたことがあった。育てた豚を食べるのは残酷だ、という声と、命をいただくとはそういうことだと学ぶべきだ、という声。あれも結局、「飼う」が挟まったせいで生まれた葛藤だった。豚肉を食べること自体には、誰も葛藤しないのに。
可愛がってから、食べる
アイヌには、イオマンテという儀式がある。子熊を家に迎えて、我が子のように愛情深く育て、大きくなったところで、みんなで見送る。肉は分け合っていただき、毛皮も使い、そして魂は神(カムイ)のもとへ送り返す。
初めて聞いたときは、あんなに可愛がっていたのに、と胸がざわついた。でも今は、少し違うふうに思う。可愛がることと食べることを、無理に切り離さない。関係を結んだうえで、いただき、送り返す。むしろ僕らの方が、スーパーのパックの手前で関係を全部切り落として、「飼う」と「食べる」を都合よく分けているだけなのかもしれない。食べ物として見る動物と、可愛がる対象としての動物。その境界は、思っているより曖昧だ。
そこで思い出すのが、さかなクンだ。あれだけ魚に詳しくて、いろんな発見までしているのに、彼はちゃんと「食べるとおいしい」と言う。よく考えると、これはすごいことだと思う。動物の研究者で、「この動物、焼くとおいしいんですよ」と嬉しそうに言う人を、僕はあまり知らない。愛することと、いただくこと。ふつうは相反しそうなその二つが、さかなクンの中では矛盾なく同居している。
思えば、あの水ラーメンも同じなのかもしれない。カニを飼い、名前をつけ、毎日世話をして、それでいて最後にはちゃんと食べる。僕が「エグい」と身を引いたその場所に、彼らはむしろ平然と立っている。詳しくなること、可愛がること、そしていただくこと。その全部を、切り離さずに引き受けている。エグいと感じてしまう僕の方が、どこかで都合よく線を引いて、目をそらしているだけなのだろう。