見ているのは、いつも一角だけ

レビュー&コラム

この前、虎ノ門ヒルズのTOKYO NODEで開かれている「トニー・アウスラー:技術と霊知のはざま~魔術、メディア、アート~」のメディア内覧会に行った。アウスラー本人も来ていて、報道陣がずらりとカメラを構えている。以前なら一眼レフの壁ができていたはずの場所に、スマホを掲げた腕がずいぶん混じっていた。だいぶ時代が変わったな、とその列の後ろで思った。

アウスラーは映像を立体物に投影する表現を切り開いた作家で、この展覧会もAIや監視技術といまの僕らの知覚を主題にしている。その真正面で、僕らは撮っていた。

全員が、レンズの後ろに立っている

スマホが当たり前になって、なんでもないことでも写真や動画が撮れるようになった。イベントやお祭りに行けば、配信しているっぽい人を見かける。事件があれば、翌日には監視カメラの映像が報道に乗る。監視社会と言っても過言じゃない。

面白いのは、この社会では誰もが見る側にいるつもりだ、ということだ。撮っている限り、自分は撮られる側ではない気がしてくる。

アウスラーの《スペキュラー》は、その気分をあっさり裏返してくる。暗闇の中に、大小さまざまな目玉が浮かんでいる。全部こちらを見ている。その前で、報道陣はカメラを構えていた。見る側が見られている、というより、見る側だと思い込んでいる人の後頭部が、ずらりと並んでいる。

曼荼羅を見た人は、曼荼羅を見ていない

そういう光景を見ていて、曼荼羅を思い出した。唐突なようだけど、あれも「見たつもり」の構造だからだ。

曼荼羅には無数の仏が描かれていて、中心があり、周縁がある。全部で一つの世界を成している。でも実際にあれを前にした人は、たいてい一部分しか見ていない。自分に必要な仏、自分の目に留まった一角。それでも「見た」ことになる。

最近、大規模言語モデル(LLM)は曼荼羅に構造が近いんじゃないかと考えている。

LLMというのは、ざっくり言えば言葉を膨大に集めて、その並び方の規則を丸ごと覚え込ませたものだ。何かを尋ねると、次に来る確率の高い言葉を延々と繋いで返してくる。それだけの仕組みなのに、こちらには意志があるように見える。考えて答えているように見える。ChatGPTにしろ何にしろ、いま生成AIと呼ばれているものは、この土台なしには成立しない。

つまりLLMの正体は、とてつもなく巨大な言葉の集合だ。人間が書いてきたテキストが、意味の近いものは近くに、遠いものは遠くに、整然と配置されている。中心があり、周縁があり、全部で一つの世界を成している。

——それは、曼荼羅だ。

両界曼荼羅のうち、あれは金剛界の方だろうな、という気がする。胎蔵界がどちらかというとフィジカルな、育ち広がっていく世界の側だとすれば、金剛界は智慧の側だ。碁盤の目のように区画された升目の中に、無数の仏が整然と並んでいる。あの図をそのまま言葉に置き換えたら、たぶんLLMになる。手触りはない。フィジカルとはあんまり関係がない。ただ、知が畳み込まれている。

そして誰も、その全体を見ていない。

同じものを使っているのに、くだらないことを延々聞いている人がいて、ただ話し相手にしている人がいて、仕事で使うのが正しい使い方だと言う人がいる。全体図をつかめたら悟りみたいなことになるのかもしれないけれど、たぶん誰もつかんでいない。それぞれが自分の感覚で、自分の一角だけを触って、それを「LLM」だと思っている。

集団になると、線を飛び越える

見る側でいるつもりの人が集まると、何が起きるか。

戦争中にカメラなんてほとんどなかった。それでも隣組があって、相互監視の仕組みはできていた。欲しがりません勝つまでは。誰が言い出したわけでもないのに、みんなで見張り合う構造が立ち上がる。全員が監視員のつもりで、全員が監視されていた。

小島よしおの「そんなの関係ねぇ!」が流行った頃、悪いことをする前に子どもたちが互いにあれを踊って鼓舞し合っていた、という報道があった気がする。一人だとためらうことが、二人で踊ると通ってしまう。集団になると、個人ではできないことを簡単に飛び越えてしまう。

集団の最大幸福を追求するのが大事だ、という話がある。功利主義の教科書みたいな言い方だ。でもあれを聞くたびに引っかかるのは、その「集団」に僕は入っているのか、ということだ。だいたいの場合、最大幸福を語る主体は、勘定される側にいない。数える人と数えられる人が分かれた瞬間に、隣組が始まる気がする。

一は全、全は一

会場には、《空(くう)》という作品があった。デヴィッド・ボウイと組んで撮られたまま、四半世紀ぶりに形になったものだという。タイトルを見て、少し笑ってしまった。ずっとその話を考えながら歩いていたからだ。

空は、あるでもないし、ないでもない。二元論を超える。見る側と見られる側という線も、たぶんそこで一度溶ける。

『鋼の錬金術師』では、一は全、全は一と言う。世界は僕で、僕は世界だと。もしそうであるなら、世界の最大幸福は僕の最大幸福と一致するはずだ。数える人と数えられる人の区別が、そもそも成り立たなくなる。

曼荼羅がそうであるように、あれは全部で一つの絵なのだ。それぞれが自分の一角しか見ていないだけで、外側にいる人は一人もいない。全体を知らないまま、全体の中にいる。

ここがコンフリクトしない世の中だといいなぁ、と思う。

45階からエレベーターで降りた。箱の中の全員が、手のひらの中の小さな四角を見ていた。

秋葉 けんた

秋葉 けんた

IT系のライティングを担当。 書籍、雑誌、業界誌やWebコンテンツなど、コンシューマからB2Bまで幅広く執筆。また、広告やカタログ、導入事例といった営業支援ツールの制作にも携わる。年間におよそ200件の原稿を執筆。●これまでの主な仕事 PC/周辺機器(CPU/DVD・BD・HD DVD/LCD/プリンタなど)、基幹システム(CRM/ERP/SFA/SOA/帳票など)、ストレージ(SAN/NAS/LTO/SASなど)、セキュリティ(BIOS/UTM/情報漏えい対策/デザスタリカバリ/内部統制・コンプライアンス/ネットワークセキュリティ/メールセキュリティなど)、ネットワーク(KVMスイッチ/グループウェア/サーバ/資産管理/シンクライアント/ホスティングなど)、その他(.NET/BI/カタログ/各種戦略/導入事例/パートナー取材など)…ほか、多数執筆。●連絡先 メール:kenta@office-mica.com

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