ずっと『国宝』という映画を見たいと思っていたが、3時間という長さを聞き、映画館で見るのは諦めた。最近Amazonプライムで配信されるようになり、ようやく見ることができた。しかし、見始めてすぐに後悔した。映画館で見るべき作品だったと感じたからだ。
まず歌舞伎の舞台の美しさに魅了された。これを大きなスクリーンで見たら、どれほど感動しただろうか。色彩や構図もさることながら、役者の身体の傾け方、首の角度、指先の運びが本当に美しい。それだけに、その動きを支える身体の負担を想像してゾッとする。あんな姿勢を保つのはさぞ辛いだろう。
映画の冒頭近くに、師匠が主人公の喜久雄に稽古をつける場面がある。背中の肩甲骨に印をつけ、何度も叩きながら厳しく指導する。喜久雄は「痛い!」と叫ぶ。見ていて、こちらの背中まで痛くなりそうだった。型とは、本来、不自由なものだ。決められた所作を、決められたとおりに繰り返す。好きなように動いていいわけではない。その不自由さに耐え、何度も繰り返して、身体に染み込ませていく。
喜久雄の肩甲骨の稽古も、最初は痛みを伴った。しかし何度も繰り返すうちに、その型が身体のなかに入り込み、自然に動けるようになった。型に従っているのではなく、型が身体の一部として馴染んでいる。痛みに耐えた背中が、舞台では美しくしなる。
では、型が身体に入ればそれでいいのか。ただ型通り動いても、人の心は動かない。その型を演じるところから、なにか「その人らしさ」とでもいうようなものが漏れ滲むことがある。みんな同じように動いているのに、その人だけ少し違って見える。違和感ではなく、思わず目を留めるような何かが、そこに感じられる。
だとしたら、それはなんだろう。型にはめてみて、初めて見えてくる「その人らしさ」とは。単なる「守破離」の話ではないと思う。型を破るのではなく、型のなかに収まったまま、その周辺にそこはかとなく漂う「なにか」だ。
小野川万菊は、俊介を指導する場面で「あなたには性根が入っていないの、空っぽなのよ」と言う。歌舞伎でいう「性根」とは、役の本質、その人物の心根のことだ。型どおりに動けていても、性根が入っていなければ、舞台の上の身体は空っぽの器に過ぎない。型に性根が入ったとき、はじめて「その人らしさ」が漂いはじめるのではないか。
歌舞伎の舞台が終わり、幕が下りたあと、喜久雄はしばらくそのまま動かない。そのあと急に我に返り、キョロキョロとあたりを見回す。「あれ、ここはどこ?」とでもいいたげに。俊介に足りない性根が、喜久雄にはしっかり入っている。師匠が事故で舞台に立てなくなったとき、実の息子ではなく喜久雄を代役として選んだ理由もそこにあるのだろうか。
もしそうだとしたら、型に性根を入れて自分ではなくなったとき、はじめて「その人らしさ」が滲み出ることになる。ちょっと矛盾しているように聞こえるが、それはそれでとても味わいがある。