鞄がどんどん重くなる。
夏になって、扇子を入れた。ハンディファンも買って入れた。日傘も入っているし、水筒も持ち歩くようになった。移動中のイヤホン、仕事用のパソコン、それとは別にiPad mini。座ったときにお尻が冷たくならないよう、キャンプ用のクッションまで入れている。災害用の笛、カッパ、おしりふきシート、汗拭きシート、ティッシュ、ペン、アルコール消毒液。いつのまにか、必要になりそうなものが少しずつ増えていって、鞄は年々重くなっていく。この重さを、どうすればいいのかわからない。
ふと、鞄の中身を眺めて気づいた。入っているものは、どれも「暮らしを快適にしてくれるはずの道具」ばかりだ。暑さをしのぐファン、喉を潤す水筒、身を守る笛。一つひとつは、生活を快適にするために持っている。それなのに、鞄はどんどん重くなる。でも、どれも削れない。そしてこれからも、きっとどんどん重くなる。
道具は、こんなに進化したのに
道具一つひとつを見ると、どんどん便利になっている。水筒は魔法瓶で、冷たさも温かさも長いこと保てる。イヤホンは周りのノイズを消して、雑踏の中でもリラックスして音楽を楽しめる。日傘は雨傘と兼用で、強い日差しも急な雨も両方しのげる。持ち歩く道具だけではない。家庭の道具も、同じように進化している。
風呂なんて、ボタンを一つ押せば、勝手にお湯が溜まって、勝手に適温になる。昔はこうじゃなかった気がする、と言ったら、妻が、昔はアパートの台所の給湯器でお湯を出して頭を洗っていたよね、と懐かしそうに言った。そういえば、そんな時代もあった。うちはたしか銭湯に通っていて、あの黄色いケロリンの桶の記憶がうっすらある。
ボタン一つで風呂が沸く時代になった。それなら持ち物も減ってよさそうなものなのに、現実は逆で、鞄はふくらむ一方だ。たぶん、便利さと引き換えに、備えるべきものが増えたんだと思う。暑さがひどくなれば扇子とファンがいる。災害に備えろと言われれば笛とカッパがいる。感染症を気にすれば消毒液がいる。道具の一つひとつに果たすべき役割があって、その役割が増えるほど、鞄は重くなる。一つひとつはどれももっともで、置いていく理由が見つからない。だから、増える。
子育ても、道具は揃った
風呂の話をしていて、親から聞いた昔の話を思い出した。僕の親の世代だと、風呂を沸かすのは子どもの仕事だったらしい。薪をくべて火加減を見る。母の兄は火加減を調整するのがうまかったらしい。農作業も手伝ったし、田植えや稲刈りの時期には学校が休みになったという。子どもが、社会的に労働力として数えられていた時代だ。僕らの世代になると、今すぐの働き手ではなく「将来の労働力」になった。社会全体が、いい学校に入っていい会社に入ることを『よし』とする風潮だったと思う。
そして今、少子高齢社会が問題になって、子どもを生み育てることが、いよいよ大事な時代になっている。子育ての道具立ては、もちろん驚くほど揃っている。ミルクは簡単にあげられるし、かつては世間から大反対された紙おむつも、今ではすっかり市民権を得て、当たり前に使われている。行政もいろいろなサービスを用意している。子育てのしやすさは、昔より格段に上がっているはずだ。
なのに、どうも子育てが孤立して見える。以前は、公園デビューだの、地域で子どもを育てるだの、そういう言葉があった。地域が、なんとなく全体で子どもを見るような空気があった気がする。それが、今は薄い。子どもに声をかけるだけで、「事案」として公開される。メールで注意喚起され、不審者と言われてしまう。
道具と制度は整ったのに、見る人の手が、そこから抜けていっている感じがする。以前と今とではなにかが変わったんだと思う。ルールなのか、求められる役割なのか。そのあたりはよくわからない。
公園デビューといえば、思い出すことがある。娘が下の子を出産するとき、数か月うちで一緒に暮らしていた時期があった。昼になると、僕が上の孫を連れて、近所の公園へ遊びに行った。公園には、ママたちが子どもを遊ばせている。その中に、僕が一人まざっている。孫の父親というほど若くはないし、かといって、いかにもおじいちゃんというほど年寄りにも見えない。この人はこの子とどういう関係なんだろう、と一目ではわからなかったと思う。たぶん怪訝な目で見られていたし、声もかけにくかっただろう。それでも僕は僕で、上の孫と一緒に、男の子が好きそうな虫を探したり、砂遊びをしたりしていた。
輪の中には、たぶん入れていなかった。あの公園で感じた居心地の悪さそのものが、地域で子どもを見る空気が薄れたということなのかもしれない、とも思う。昔なら、子どもを連れた人が公園にいても、誰かが自然に声をかけたのかもしれない。
そうした生活がしばらく続いて女の子が生まれた。この子たちが育っていく時代は、どんなふうになっているんだろう。僕が当たり前だと思ってきたことの、いくつかは、たぶんもう当たり前ではなくなっている。
男か女か、意識しなくなった
減っているといえば、性別を意識する場面も、昔より減ってきた気がする。その一つが、格好だ。
昔は、男は男らしい格好を、女は女らしい格好をするのが当たり前だった。それ以外の格好をすると、変な目で見られた。でも今は、そんなことはない。ユニセックスな服も多いし、完全に女性向けにつくられた服を男性が着ることも、珍しくなくなってきた。
姫にい、というユーチューバーがいる。いわゆる女装が好きな男性だ。見た目は女性。声は低くてそのギャップが面白い。配信を見ていて思う。姫にいは「男が女装してもいいじゃないか」というが、本当にその通りな気がする。むしろ、なんで今までは男が女装するのがダメだったんだろう。昔、露出の多い服装が痴漢の言い訳にされて反発が起きた、という話もあった。何を着ようが本人の自由で、それを理由に危害を加えていいわけがない。好きな格好をすればいい。その通りだと思う。
女装といえば、思い出したことがある。妻とまだ結婚していなかった頃、妻の知り合いが、どうしても妻にチャイナドレスを着せたがっていたことがあった。僕はそれがすごく嫌で、あろうことかそのチャイナドレスを奪って、自分で着た。飲み屋のトイレで着替えて、ジャーンと出ていった。店員さんにはむちゃくちゃ受けたけれど、そのあとどうしたんだったか。あのまま帰ったんだったかな。酔っていて、よく覚えていない。ただ、なんだか動きにくい服だな、と思ったことだけは覚えている。
脱線したが、格好の話に戻る。みんな好きな格好をすればいい——そう言い切りたいところだが、格好なんてどうでもいいかというと、そうでもない気がしてくる。仕事の場では仕事っぽい格好をするし、葬式には黒を着る。誰に強制されなくても、なんとなくそうする。マナー、ドレスコード、暗黙のルール。結局、格好はその場の雰囲気をつくる部品でもある。京都なんて、街ぐるみでそれをやっている。景観条例があって、コンビニの看板まで落ち着いた色になっている。
好きにしていい自由と、場の空気を守るルール。どちらか一方に決めてしまうと、たぶん何かこぼれ落ちる。
役割の輪郭が、ぼやけてきた
こうして並べてみると、どれも「役割」の話なのかもしれない、と思えてきた。
鞄が重いのは、道具の一つひとつに、求められる役割があるからだ。暑さをしのぐ、水分を保つ、災害に備える。その役割が必要とされるから、道具は増え、鞄は重くなる。役割が増えれば、荷物も増える。
子育ても、たぶん役割の話だ。考えてみれば、どうして女性が当たり前のように子育てを担ってきたんだろう。専業主婦が当たり前だった時代もあったけれど、それ自体、本当は当たり前ではなかったのかもしれない。その証拠に、専業主夫という言葉は、今もあまり聞かない。知らず知らずのうちに根付いた役割や区別、ときには差別に近い意識が、僕らの中にまだ残っている。
格好の話も、結局は同じところに行き着く。男は男らしく、女は女らしく。そういう性別に割り当てられた役割の輪郭が、今、少しずつぼやけてきている。ユニセックスな服も、男の女装も、その輪郭が薄れてきたことの表れなんだと思う。
昔の常識が、当てはまらない
では、役割なんて全部なくして、完全にフラットになればいいのかというと、それも違う気がする。きっと性差はあるんだと思う。それを拡大して勝手に押し付けてしまうのが問題になるんだと思う。
人は結局、その時代の流れや、育ってきた環境から、そう簡単には自由になれない。僕自身、どこかで昔の役割を引きずっているだろうし、それを全部きれいに捨てられるとも思わない。役割そのものが悪いわけでもない。
ただ、これまでの役割と、これからの役割は、だいぶ違ってくるんだろうとは思う。増え続ける道具にも、子育てのかたちにも、格好にも、昔の常識をそのまま当てはめるのが難しい時代になってきている。輪郭がぼやけていく途中というのは、たぶん一番、居心地が悪い。あの公園の、どこにも属せなかった感じに、少し似ている。でも、孫たちは育っているし、楽しそうに生きている。ダンスを思う存分踊っている姿を見ると感動する。
この子たちが大人になる頃には、男とか女とかいう輪郭も、僕が背負っている常識も、もっとぼやけているんだろう。それがいいことなのか、寂しいことなのかは、正直わからない。
今日も重い鞄を担いで歩く。肩に食い込むこの重さは、そのぼやけた輪郭の、重さでもあるのかもしれない。そう思ってみても、やっぱり重いものは重い。