なぜ人は簡単に「わからない」を手放すのか

ChatGPT

先日、こんな出来事があった。

友人からLINEメッセージが届いた。
共通の友だちと電話で話したが、彼女が言っている話がよく理解できない。説明がわかりにくく、何を言っているのか理解できない。だから、あなたが電話して代わりに聞いてほしい、という依頼だった。

私はそのお願いを引き受け、その相手と電話で話した。話の内容を整理し、友人に伝えた。実務としては、それで解決した。

だが、そのあとに、どうしても消えない違和感が残った。

なぜ友人は、「わからない」という状態を、自分で引き受けようとしなかったのだろう。
なぜ、自分の言葉で聞き直したり、確認したりする前に、他人に丸投げするのだろう。

同じような場面は、日常にいくらでもある。
説明が難しい話、制度や手続きの話、感情が絡む話。
「よくわからないから、詳しい人に任せる」
「結論だけ教えてほしい」

その態度に、私はいつも小さな引っかかりを覚える。

「人に頼るな」ということではない。
理解するプロセスそのものを、あまりにも簡単に手放してしまうことに引っかかるのだ。

多くの人にとって、「わからない状態」は不快だ。
宙ぶらりんで、落ち着かず、不安になる。
だから、その不快さを早く終わらせるために、誰かに処理を委ねる。

考えることは、時間がかかる。
言葉にしようとすると、自分の曖昧さや不安も露わになる。
その負荷を引き受けるより、「わかった状態」を外から持ってきたほうが楽だ。

それは単なる効率化ではない。
思考の主導権を放棄する行為だ。

私は、わからないことに出会ったら、できるだけその場に踏みとどまろうとする。
何がわからないのか。
どこで話が飛んだのか。
どの言葉が引っかかっているのか。

すぐに答えが出なくてもいい。
むしろ、その「整理できなさ」の中にこそ、考える手応えがあると思っている。

だから、今回の出来事にひっかかった。
代わりに電話をかけること自体は問題ではない。
だが、「わからない」を自分のものとして抱える前に、それを手放してしまう態度には、どうしても違和感を覚えてしまう。

AI活用でも、同じような話をよく聞く。
「考えるのが面倒だから、まとめてもらう」
「自分で整理する前に、答えをもらう」

便利だし、助かる場面も多い。
だが、その使い方が積み重なると、「考えること」そのものが、自分の仕事でなくなっていくのではないか。

私は、AIは思考を奪う存在にもなりうるし、思考を支える存在にもなりうる。
その分かれ道は、技術ではなく、私たちの姿勢にある。

考えることを、他人に、あるいはAIに、明け渡さなくていい。
わからないまま立ち止まってもいい。
うまく言葉にならない時間を、急いで片づけなくていい。

私は、AIを思考の肩代わりにするのではなく、考え続けるための足場を一緒に作る存在として活かしていきたい。
そんな立場で、これからもAIの解説記事を書いていくつもりだ。

井上 真花(いのうえみか)

井上 真花(いのうえみか)

有限会社マイカ代表取締役。PDA博物館の初代館長。長崎県に生まれ、大阪、東京、三重を転々とし、現在は東京都台東区に在住。1994年にHP100LXと出会ったのをきかっけに、フリーライターとして雑誌、書籍などで執筆するようになり、1997年に上京して技術評論社に入社。その後再び独立し、2001年に「マイカ」を設立。主な業務は、一般誌や専門誌、業界紙や新聞、Web媒体などBtoCコンテンツ、および広告やカタログ、導入事例などBtoBコンテンツの制作。プライベートでは、井上円了哲学塾の第一期修了生として「哲学カフェ@神保町」の世話人、2020年以降は「なごテツ」のオンラインカフェの世話人を務める。趣味は考えること。

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