私は、「私」を確かな輪郭をもった存在だと思っていました。自分の意思で考え、選び、行動している。世界とは独立した一つの個人。しかし「事事無碍」の思想に触れて以来、その輪郭は少しずつ溶けていきました。
いま私がこの文章を書いているとき、あたかも自分で考えて書いているように感じます。けれど実はそうではありません。先人が残した思想があり、友人や家族との会話があり、時代背景や社会環境という枠組みがあり、メディアや本からインプットされる情報がある──そのすべてが集まって、今の私の思考を形づくっています。つまり「私」というものは、実は世界に散らばる無数の縁の結び目にすぎないのです。
そう考えると、「個人」という境界はだんだんあいまいになります。私と他者を分けていた線が溶け、私の考えの中に他者の声が響き、他者の行動の中に私の痕跡が宿る。もはや「ここからが私、そこからがあなた」と切り分けることに意味はないように思えてきます。その感覚は、自分を失うということに近いかもしれません。自分を失えば、私の意思もなくなります。私はそれを恐れるでしょうか、それとも安心するでしょうか。
「自分の意思で生きる」という言葉はとても力強く感じますが、そこには頑なさと傲慢さがあります。
「なるようになる」という言葉はいいかげんにも聞こえますが、そこには世界に対する深い信頼があります。
分断を前提にせず、すべてがつながりの中で揺らぎ合っていると感じる。その全体のなかで、私は一つの流れとして生きているにすぎない。そう考えたとき、なにか肩の力が抜けたような、よくわからないこだわりが消えていくような、そんな不思議で心地よい感覚を覚えました。
「個人」という実体が溶けていき、大河のなかの一粒になる。分断のない世界に気づいたとき、私は「世界とともにある自分」という感覚を抱くことができました。
さて、7回にわたって綴ったこの哲学ブログは、いよいよ最終回を迎えます。この連載を通して、私は一つの気づきに辿り着きました。それは、「私」という確固たる存在は幻想であり、実際には無数の関係性の結び目として、世界と分かちがたく結びついているということです。
「なぜ伝わらないのか」という素朴な問いから始まった旅は、環世界論、唯識思想、モナドロジー、華厳思想という多様な思想的景色を経て、最終的に「個と全体が溶け合う」という境地へと至りました。それは恐れではなく、むしろ深い安心感をもたらすものでした。
哲学は答えを与えるものではありません。違和感を抱え、保持しつつ、ともに歩み続けることで、世界の見え方が少しずつ変わっていく──それこそが哲学の本質です。この連載が、読者の皆さんにとっても、新たな問いを育てる小さなきっかけになれば幸いです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。