「私の趣味は哲学です」というと、相手はたいてい怪訝そうな顔をします。そのまま話題を変えられることも珍しくありません。そうした反応を引き起こす「なにか」が、哲学という言葉の中に秘められているのでしょう。
私はこの10年間、哲学カフェのファシリテーターを務め、多くの人と対話を重ねてきました。そこで交わされた言葉から、思いもよらないヒントを得たり、自分の考えが広がっていく瞬間を数えきれないほど体験しました。それは私にとって何よりの楽しみであり、大きな刺激でもあります。だからこそ「趣味は哲学」と言いたいのですが、そうすると妙な空気になってしまうため、実際はあまり口にしないようにしています。
「哲学」と聞くと、多くの人は「むずかしそう」と身構えます。その気持ちは理解できます。しかし私にとって哲学は、決して難解な学問ではなく、とても日常的な営みです。実際に生きるうえで役に立ち、自分を支えてくれるものだと実感してきました。だからこそ、その感覚を言葉にしてみたいと思ったのです。
とはいえ、最初からそう感じていたわけではありません。
私はかつて、自分の感情に大きく振り回され、生きにくさを感じていました。
悲しみ、怒り、不安。なぜこんなにも感情が揺さぶられるのか。幸せに暮らしていても、ちょっとしたことでその幸せが崩れてしまい、「もう消えてしまいたい」とさえ思う、その理由がわからなかったのです。このままではいけない、これを解決しなければ安心して生きていけない。そう思い詰めていた時期がありました。
そんなときに出会ったのが「井上円了哲学塾」でした。東洋大学が2013年にはじめた事業で、新聞でそのニュースを目にした瞬間、「ここに行くしかない」と直感しました。自分でも驚くほどのエネルギーで入塾テストに臨み、合格が決まった時の喜びは今も忘れられません。これが、私と哲学の出会いでした。
このとき学んだことはいろいろありますが、そのひとつが「環世界」という概念です。同じ物理的な環境にいても、生物の種類や個々の特性によって知覚できる世界は異なり、それぞれが独自の「環世界」の中で生きているという考え方でした。
さらに「唯識」という思想にも出会いました。「私たちが認識している全ての存在が、心(識)が生み出したものに過ぎない」という考えです。「世界は自分の認識のなかにある」と理解した時、私の視界が大きく転換したことを今も覚えています。確固たる世界が外側に存在するのではなく、人の数、いや命の数だけ世界がある。このとき真っ先に感じたのは、「正しいも間違いもない」ということでした。
こういった体験を通じて、悩みや感情はただ解決すべき問題ではなく、「問いの入口」なのだと考えるようになりました。怒りも不安も、立ち止まって見つめ直せば、自分を知り、世界を知るためのタネになる、と。
日常の小さな違和感から始まる哲学
哲学は遠い知識ではありません。日常生活の中で起きる小さな出来事や感情の揺らぎこそが、「問いのタネ」になります。そのタネを大切に育てることで、今まで気づいていなかった視点や新しい枠組みが見えてくる。これがとても楽しく刺激的で、私はすっかり夢中になってしまいました。
以前はあんなに怖かった感情の波が、いつの間にか小さなさざ波となり、その様子を観察しながら楽しむことさえできるようになったのですから効果は絶大です。
哲学とは、正しい答えを見つけることではない。問いを持ち続けること、問いを通して自分や世界を少しずつ見直していくことにこそ、哲学の真価があります。
日々の違和感や感情をタネにして、自分の中で育てていく。ときに他者と交わし、新しい考えに触れることで、さらに自分の思考を深めていく。その積み重ねによって、私の「テツガク」が育っていくのです。この連載では、そんな「生活の中に潜む哲学」を言語化してみます。