【小説】限定的念力(楠田文人)

(一)

早目の授業が終わって帰る途中、駅で平井に会った。
「やあ」
「戸田はもう帰り?」
「今日は授業が終わりなんだ」
「さっき朝倉に会ってさ、剣道場に行くって言ってた。あいつ、いつもさむらいの格好してるよな」
朝倉は、さむらいが普段の生活に染み込んで来たらしい。
「近所の神社で早朝稽古をしてるんだって」
「テレビの見過ぎだな」

平井は教科書とノートだけでなく、大きめの水色の封筒を持っている。曲らないよう大事にしているところを見ると、大学の書類ではなさそうだ。
「その封筒は?」
「五級に受かったんだ!」
平井は嬉しそうに言った。
「五級? 何の五級」
「限定的念力使用許可五級。一般の部だけど。総務に見せて許可を貰って来たから学内でも念力が使える」
「念力? 使う?」
「戸田は知らないか。念力の使用が許可制になってるのは知ってる?」
何となく聞いたことがある。
「うん」
「その、一般の部の五級に受かった。使用許可の場所は限定的だけど、その範囲なら使っていいんだ」
戸田はにこにこしながら、封筒から出した許可証を見せてくれた。
「一般の部 平井正和殿 限定的念力五級の使用を許可する。精神労働大臣阿部晴明」
表彰状みたいだ。
「へぇ!? 一級まであるの?」
「そう。卒業するまでに三級は取りたいんだけどね」
「使用許可ってことは、平井は念力を使えるんだ?」

平井はそれに答えず、ポケットからビスケットを一袋取り出した。そして手のひらに乗せてじっと見詰めると、ビスケットはふわっと宙に浮き、そのまますーっと改札口に向かって飛んで行くではないか!
「凄い!」
通り掛かった女子学生のグループが
「わーっ!」
「見て見て!」
「すっごーぃ!」
と声を上げた。ビスケットは一瞬ふらついたものの、いずまいを直して正しく飛び、自動改札機に辿り着いた。もちろんビスケットなので自動改札機には入らない。
固唾を飲んで見ていた人から
「わーっ!」
ぱちぱちぱち、と拍手が起こり、周りに居合わせた人や足しげく通り過ぎる人は、何事かと振り返って見ている。
小さい女の子が言った。
「ママ、私のビスケットは?」
「ここよ」
お母さんがバッグから割れたビスケットを出して見せた。女の子は安心して改札口の方に向き直った。

「凄いね」
「五級だからな」
平井は照れているが、どことなく自慢気だ。
「人に迷惑を掛けちゃいけないとか、謝礼を貰っちゃいけないとか、色々規定はあるけど、講習を受けて実技試験があって、やっと許可証が貰えたんだ」
「一級って言うと、どのくらい凄いんだろうね?」
「見えないところにも念力が利くから、忘れた弁当を会社に届けたりできるらしい。それより凄いのは業務の部だよ」
「一般の部と免許が違うんだ?」
「業務で使える免許だから、一キロ以上離れた店から出前を届けるとか、 50m の高さでクレーンを操作する人に弁当を届けるとか出来る。カツどんをどんぶりごとスーパーカミオカンデに届けたって話を聞いたことがある。沢庵付きでだぜ!」
「へぇ! それは凄い」
言ってから余り凄くないことに気付いた。なんで食いもんばかりなんだ?

平井は続けて言う。
「夏場にアイスとかシャーベットとか、チョコレートもんを運ぶのは大変なんだ。日陰の場所をうまく使わないと、届いた時に融けてる」
「ドライアイスを入れときゃいいじゃん」
「ドライアイスは食いもんじゃないから、別の手間が掛かるんだ」

私は疑問に思った。
「なあ平井」
「なんだい?」
「何で念力で運ぶのは食べ物ばかりなんだい?」
「うぐっ! だ、だって、夏だって、食べたいものは食べたいだろ!?」
答えになっていないし、平井の顔がひきつっている。
「平井の言った念力を使う例は弁当とか食べ物ばかりじゃん。どうして? 今、平井の見せてくれたのもビスケットだし」
「そ、それはあの、えっと…」
具合が悪そうに、平井は目線をあちこちに巡らせたまま言った。
「用事を思い出した。失礼する」
改札口に駆け寄って自動改札機の下に落ちたビスケットの袋を拾うと、改札口に消えて行った。

「怪しい」

(二)

そば屋の出前に於ける念力効果が最初に発見されたのは山縣(やまがた)屋の出前だ。山縣屋が国内で初めて、出前を自転車で運ぶ代わりに業務用限定的念力を使用した。注文した新潟物理学研究室の助教授 A が、それまでとは違うどんぶり内の縁の濡れ方で気付いたのである。

助教授 A は過去ニ年間、土曜日の昼に食べる山縣屋のカレー南蛮そばを楽しみにしていた。研究室から電話して、出前が守衛所を通って持って来るのに大体 43 分掛かる。どんぶりの中でカレーの汁がたぷんたぷんと波打って、どんぶりの縁までカレーで濡れるのが普通だった。

その日もカレー南蛮そばを注文して、うとうとした頃に届き、手を洗って食べ始めて端っこのネギを掴もうとした時、どんぶりの縁がカレーにまみれていないことに気付いた。

「これは変だ!?」

それまで具の肉が少ないことや、ねぎが切り損なって繋がっていたことはあっても、どんぶりが揺れて汁で縁が濡れないことはなかった。縁の汁が乾いた形跡もない。

いつも、小皿の七味唐辛子と刻みねぎを一気にぶちまけてしまってから、何故カレー南蛮そばに七味唐辛子が付いて来るのか疑問に思いつつ、どんぶりの縁がカレーで濡れているのを確認してから食べた後に、どんぶりの反対側の縁をぐるっと嘗めまわす、その楽しみが奪われてしまった。それはいいのだけど。

一度、薬味の小皿に刻みねぎとわさびが乗っていたことがあった。

A は考えた。どんぶりを運ぶと中の汁は波打つ。よく知られた慣性の法則で、時速 300 キロで移動する新幹線の中でキャッチボールできるのと同じだ。キャッチボールする人もボールも時速 300 キロで移動しているからで、速球を投げるとボールは時速 380 キロとかになる。反対向きだと 220 キロだけど、どちらにせよかなり迷惑だから止めよう。

カレー南蛮そばの場合は、どんぶりと中身が同時に移動したと考えられるのだ。
「あいよっ! 新潟物理学教室さんのカレー南蛮そば、お待ち!」
と、出来たてのそばが厨房のステンレスの棚に置かれた。湯気が立ち上がる、熱いどんぶり鉢を出前担当者が急いでお盆に乗せる。その間もどんぶりは動くから中の汁はたぷんたぷんとあちこちに動くはずだ。その形跡がない。

ラーメンの場合、たぷんたぷんと波打っていても乾いてしまって痕跡が残らないことも有り得る。もやしそばしかり、固焼きそばしかり、冷やし中華もしかり。
「冷凍してここまで運んだ? まさか」
それは有り得ないが、そうでもしなければ汁が波打っていない理由が判らない。波立たないようにどんぶりを運べないこともないが、山縣屋の出前の取り扱いを思うと、そこまで気を付けてそうっと運ぶとは思えない。
「仕方ない。山縣屋の出前に聞こう」

A とて暇な訳じゃない。抱えているのは

「空間上の任意の三点を共有する平面が存在する。同空間上に追加された一点が、他二点と共有する平面を生成する時、三種類の平面(三角形)が存在する。それぞれの三角形の面積の和を求めなさい」

と言う研究だ。その和は一定になると考えているのだけど。

早く実験しなければならないが、なぜ、どんぶりの縁に汁が着かなかったのか、そっちの方が気になる。カレー南蛮そばを口に運びつつ、原因を汁のは、基い、知るのは学者としての心情であった。

食べたらどちらから先に手を付けようか。

(三)

ガチャ。
「あら! カレーの匂い!」
研究室の戸が開いて A の先輩助教授 B さんが入って来た。
「どうも」
「今日はカレーライス?」
「いいえ、カレー南蛮そばです」
B さんは部屋を横切り、ショルダーバッグを机に置いた。
「好きねぇ!?」
髪の毛を後ろでまとめ、壁に掛かった白衣を取って腕を通す。
窓の外、芽吹き始めた並木の間を剣道着の学生がランニングして行く。女子剣道部だ。
「好きですから」
「B さんは?」
「実験データを見に来たの」
そう言いながら B さんは椅子に座り、コンピュータのスイッチを入れた。B さんの研究は「空間内定在波への影響測定」と言って、物理研究室の隣の部屋に設置された小型のマイクロハグロヤマカンデを使い、研究資材に及ぼす予定外の影響を調べている。何の訳に立つのかは不明だが研究とはそう言うものだ。小型と言ってもマイクロハグロカンデのことだ。一部屋を丸々埋め尽くしている。
モニタを見詰める B さんの表情が険しくなった。カチャカチャ、プンッ。カタッ。窓の前に置かれたプリンタが動き出した。
ジージー、シャカシャカ。
「ずーずー、じゅるっ」
ジージー、シャカシャカ。
「ずーずー、ちゅるっ」
カレー南蛮そばが冷めて来て、火傷を気にしなくても啜れるようになり、さらには、どんぶりに口を付けて汁を飲めるようになったらしい。啜る音とプリンタの音が混ざり、ハーモニーを醸し出す。いや、ハーモニーほどではないが。

ラーメンでもスープでも、ある温度以下になると、火傷を心配せずに飲めるようになる。楽に飲めるかどうかの境目の温度を Scald Border(スコールドボーダー)と呼ぶ。猫舌性高熱非耐性症候群など人によって誤差があるため、同じ料理でも温度一定ではないらしい。気を付けなくてならないのは溶質の種類だ。コンソメスープや醤油ラーメンなどは問題なくても、コーンスープ、ワンタン麺、とろみを付けた固焼きそばなど、主に小麦粉を中心とした、表面は空気に触れていて温度は下がっても内部で高温を保持する溶質が含まれる料理の場合は、予期せぬ熱射を浴びることがある。話が外れた。

B さんが立ち上がり、プリンタのトレーに向かった。出力されたプリントを見ている。
「おかしい。こんなの見たことない」
「どうしたんですか?」
A さんはどんぶりの底に残った肉の切れ端を摘まみながら聞いた。
「空間内定在波が揺れてる」
「マイクロハグロヤマカン、でしたっけ?」
「マイクロハグロヤマカンデ!」
「あ、そうでした。空間定在波を調べるやつですよね?」
「空間内定在波!」
「済みません。間違えまして…」
B さんが額に皺を寄せて A さんを睨む。沈黙が流れた。

掛け声が聞こえて来て、窓の外を先程の女子剣道部が戻って来た、その時だった。
「わーっ!」
「何あれ!?」
「天狗。天狗よ!」
「天狗が空を飛んでるの!?」
女子剣道部が口々に声を上げる。
A さんと B さんもその声に驚いて窓に駆け寄った。女子剣道部員達は、皆口を開けて空を見上げている。具合悪いことに、室内のプリンタ前の窓からでは空がよく見えない。
くちゃ、くちゃ、くちゃ。
A さんは、カレー南蛮そばの肉の切れ端をまだ味わっている。
「見えない!」
B さんがドアに向かって駆け出した。外に出て天狗とやらを見るつもりのようだ。空間内定在波データの異常はどこへやら、瞬間的に頭が切り替わったらしい。

一度、研究室の忘年会で酔ったついでに、A さんに
「A さんって、ちょっとミーハーなところがありますよね」
と言ったことがある。しかし A さんは B さん以上に赤い顔をして
「研究者は好奇心旺盛なのよ、きゃーっははは」
と笑った。都合のよい言い訳の気がするのだけど、まあいいか。

(四)

A さんは急いで廊下を走り通用口から外に出た。口の中の肉の切れ端は、もう少し味わっていたい気もしたけど部屋を出た時に飲み込んだ。
並木の間にある正門からの通りでは、女子剣道部部員達と B さんが空を見上げて立っている。他の教員や学生達も、遠巻きにして同じ方を見上げている。
見ている先の校舎の上では何かが動いている。まぶしくて見にくいけど、人間の形をして白い服を着て空を泳ぐように飛んでいるのが判る。
「何か落とした!」
「何、何!?」
ひゅーん! とおぉん!
女子剣道部員が落ちたところに駆け寄った。
「下駄だ…」
校舎の通りを少し外れた土の上に、大きな下駄が転がっている。それを取り巻く女子剣道部員達。
「あっ!」
一人の女子剣道部員が空を見上げて声を発した。
「天狗が下りて来る!」
「えっ!?」
校舎の上を飛んでいた天狗がゆっくり円を描きながら下りて来る。
「下駄を落としたから拾いに来るんだ」
「本物の天狗を見られるの!?」
「どこにサインして貰おうっか!?」
女子剣道部員達は剣道着の袂を広げてる。紺色にサインしてもらっても読みにくいぞ。
「判ったぁ! まいまいず井戸と同じ方法で下りて来るんだよ!」
眼鏡を掛けた女子剣道部員が目をきらきらさせて言う。歴女に違いない。
「まいまい?」
「まいまいず井戸。歴史の授業でやったじゃん!」

まいまいず井戸:
武蔵野台地に多く見られる井戸の形態。かたつむり(マイマイ)の形に似ていることから名付けられたらしい。井戸を一点で地中に向かって掘り進むのではなく、周りからぐるっと螺旋形の道を作って掘り下げて行き、最終的に中心の井戸に辿り着く堀り方。一ヶ所に井戸を掘ると、大勢で利用できないし、大量に汲みだせない。まいまいず井戸なら、台車に樽を乗せて井戸まで下り、汲んだ水を台車に乗せて上がれるし、水を汲みに来て誰かが汲んでいたら、道にずっと並んで待てば邪魔にならない。場所があれば焼きそば屋台やタコ焼き屋台からラーメン屋の屋台まで出せる。なんつったって、井戸がすぐそばにあるから、食器洗いは心配ない。
話が外れた。

ゆっくり円を描きながら下りて来た天狗は、皆が見守る中、一本の並木に掴まって止まった。
「ふう」
緊張しているのか、天狗は懐から「祭禮」の文字が染め抜かれた手拭いを出して汗を拭い、その場にいる全員を見回した。白装束に黒い羽織を着て、「はぐろさん」と書かれたタスキを掛け、尖った赤い鼻とちょっと曲った烏帽子は、誰もが知っている天狗そのものだった。そして、左足に履いた高下駄。右足は足袋のままだ。
「ごほん!」
天狗は咳払いして当りを一瞥し、ゆっくりと落ちた下駄を取りに行った。
何となく照れ笑いをしてるようだ。白足袋の右足は低く、左足の下駄の歯は高く、左右の差がかなりあるので、ぴょこたん、ぴょこたんと言う動きになり、下駄の方の左足を踏み出す度に声を掛けることになる。
「おいっしょ!」
ぴょこたん。
「おいっしょ!」
ぴょこたん。
女子剣道部員の中には、吹き出しそうになって横を向いて顔を隠す子もいる。
天狗は落とした下駄に近づき、体を屈めて拾い上げた。ちょっとだけ白い鼻緒に付いた泥を祓って履いた。そして背中に背負った大きな団扇を取り、扇ぐ体勢を取った。
何故ここで団扇? 飛び立つのだろうか?

「済みません! サインしてください!」
いつの間にか、すぐそばに女子剣道部員がやって来ていた。天狗が女子剣道部員を見ると、その子はメモ帖に鉛筆を添えて差し出している。
「あ、いいなぁ。私も」
「私も!」
「こっちもぉ!」
天狗の前には、あっと言う間に女子剣道部員の列が出来た。

A さんがふと見ると、B さんがポケットを探ってる。
『まさか B さんもサインか?』

(五)

天狗は意外に親切だった。
ノートやメモ帖、包み紙の裏、果ては剣道着の袂へのサインの頼みに、にこにこしながら一つ一つ丁寧にサインしていた。暇だったのかも知れない。
「喉が乾いたな」
天狗が呟いた。
「ちょっと待っててください」
女子剣道部員が一人、近くの剣道部部室へ飲み物を取りに走って行く。サインをし終わった天狗は、走る剣道部員を横目で見ながら通り沿いのベンチに腰掛けた。
「ふう」

「天狗さん疲れたでしょ?」
「ああ」
天狗は低い声で答えた。
「『ああ』だって! ぶっきらぼーでかっこいいね!」
「いっつもこうなんですかぁ?」
「ああ」
「きゃー! また、『ああ』って言った!」
「いっつもこうなんだって!」
女子剣道部員の反応は、天狗のそれと顕著に違うため、意思を正しく受け取って貰っていない気がする。それに、サインなんてしたことがないので、どう言う反応をすればいいのか判らない。尤も、渋谷のハチ公前なら、一斉にスマホで写真を撮られるだろう。

女子剣道部部室の戸が開き、剣道着姿の部員が出て来た。小さなお盆に、薄いオレンジ色の液体が入ったコップを乗せている。
先日、地元の先輩に差し入れしてもらったグレープフルーツジュースだ。皆、最初は喜んで、一杯ずつコップに注いで、にこにこして
「乾杯!」
と言って一口飲み
「うっ!」
と言ったままほとんど全員が残したくらい、かなり酸っぱいけど大丈夫だろうか。上級生がわざわざ賞味期限を確認したら出来たてだったのだが。

お盆を前に差し出して、こちらに向かって早足で向かう女子剣道部員は、道路を横切ろうとして小さな切り株につまづいた。
「あっ!」
宙に舞うコップ。その瞬間、コップは空中に浮いたまま止まった! 酸っぱいグレープフルーツジュースも宙に浮いでいる!

どしん! からん! からからからっ。

「痛っ、たたた!」
女子剣道部員の子が、つんのめるようにして倒れ込んだ。こちらには普通に物理法則が適用された。お盆が道路を斜めに転がって行った。

宙に浮いたコップは、すーっと天狗に向かって空中を移動して行く。天狗は取り出した団扇をコップに向けて静かに扇いでいる。扇いでいると言うか、釣り糸を引っ張るような感じで、こっちに来い、とでも言っているようだ。
「天狗さん、凄ぉーい!」
「凄い」
コップは斜めになったまま、すーっと天狗に引き寄せられる。中のグレープフルーツジュースも、斜めになったままコップと一緒に引き寄せられている。

「慣性を無視してるわね」
B さんが呟く。
「本当ですね! コップとジュースが、宙に浮いた瞬間に周りの運動系から切り離されて、慣性を保ったまま天狗に出前してるみたいだ…。あっ! そうか、そうだったのか!」
「どうしたの?」
「さっきのカレー南蛮そばは、この原理で届けられたんだ!」
「どう言うこと?」

コップが天狗の前で止まった。天狗がジュースが零れないように、そっとコップを手に取ると、ジュースはそれまでの慣性系から、皆と同じ系に戻ったらしい。
天狗はぐぃっと飲んだ。
「うゑ、酸っぱっ!」
吐き出さなかっただけ偉い、と、女子剣道部の上級生は感心した。さすが天狗だ。

「出前で揺れたはずなのに、カレー南蛮そばの汁が丼の縁に付いてなかったんです。だから汁も丼と同じ慣性系で動いたのではないかと推測出来たんだけど、天狗の団扇だったんだ」
それを聞いた B さんは踵を返して研究室に向かった。
「戻るんですか!?」
「研究室で取ってる『定在波マガジン』か『あなたの定在波』に、『特集、真夏の夜の謎! こんなにある定在波異常スポット』って記事があったのよ! 天狗が団扇で起こす物質移動が定在波を乱しているとすれば、その場所が載ってるかも」
「はあ?」
「記事に全国の『定在波異常スポットマップ』が載ってたの。定在波異常の起きる場所と、天狗のいる場所が合っていれば」
B さんは研究室のドアを開けて入って行った。A さんもそれに続く。

B さんは机の隅にあった雑誌の中から『定在波マガジン』を引っ張り出した。ページを捲ると日本地図が現れた。B さんは食い入るように見つめ、それからコンピュータのモニタを見た。
「やっぱり!」
嬉しそうな顔。
カチャカチャ、プン!
すぐさまデータをプリンタで出力した。

「天狗さん、気を付けてね!」
「また、遊びに来てね」
天狗は女子剣道部員に見送られて、団扇を羽ばたかせると、ゆっくり空に昇って行く。
「いいなぁ、私も飛んで見たいなぁ」
「そだねー」
ベンチには、半分以上残されたグレープフルーツジュース。
「また天狗さんが来た時のために、違うジュース買っとこうね」
「そだねー」

(六)

「12 時 29 分から、12 時 32 分まで、異常な波が記録されてる。天狗がコップを団扇で引き寄せた時間と合ってるわ!」
「天狗の団扇から、定在波に異常を与える波動が発生してる証拠ですね?」

A さんはカレー南蛮そばの丼を一応チェックしながら言った。ちょっとお腹が空いてきて、丼半分くらいなら食べられそうだ。

からん。

割り箸の音に、B さんは A さんの手元をチラっと見た。
「そのようね。その前を見ると 12 時 9 分から 12 時 16 分まで同じ波長の波が記録されてる。これは天狗が飛んで来た時のものかも」
「成る程! 天狗は空を飛ぶ時もあの団扇を使ったって訳だ」
B さんは頷いている。そして雑誌に掲載された日本地図を見た。
「異常ポイントが日本中にあるわね」
「それが、特集記事ですか?」
B さんがページを開いた雑誌の見開き日本地図には、日本全国の定在波異常スポットがプロットしてあった。県ごとに二、三ヵ所あり、集中している地域もある。
「羽黒山には大きな赤丸が付いてますね?」
「『強力的尚且つ定常的な異常波長を発生』の場所に、大きな赤丸が付いてるみたい」
「天狗の団扇から出る波動が、定在波の異常を起こしているのは間違いないですね!」
B さんが思い出したように言う。
「さっき気付いたけれど、天狗の団扇で扇ぐと、周りの慣性運動系とは別の慣性系を生み出して、維持出来るみたいね」
A さんは天狗がコップを宙に浮いたまま引き寄せたのを思い出した。コップが斜めになって、重力に逆らって中のジュースの水面も斜めになっていた。ジュースの水面が平行になる方向に、重力が働いていることになる。それは我々が感じているのとは違う重力系だ。
「例えば、その系を使えば、違う重力状態を作れる、って訳ですか?」
「可能なんじゃない? もしかすると、別の方向に重力の中心があるのかも」
ジー、シャカシャカ。プリントが始まった。

プリントを確認してから B さんは定在波異常ポイントマップを持って出掛けた。一番近い羽黒山のポイントを調べるのだと言う。A さんは興味があるものの、自分の研究対象ではないので研究室に残った。

とんとん。

「はい」
「出前のお代をいただきに上がりました」
ドアが開いて、白い服を着た山縣屋の出前が入って来た。いつもの流しの脇に置かれた空き丼を岡持にいれ、
「七百円です」
と言い、腰に下げた大きな財布の口を開けた。

この出前が、天狗の団扇を使ってカレー南蛮そばを出前したのだろうか。
「その丼なんだけどね」
A さんは、千円札を出しながら岡持の一番下の段の丼を指した。
「はい?」
「誰が出前したの?」
山縣屋の出前は、お釣りの三百円を渡しながら答える。
「うちに修行に来てる小天狗です」
「小天狗!? まさか天狗って!」
「羽黒山で修行してる小天狗で、技の修行で出前を手伝って貰ってるんですよ。粗相がありましたでしょうか?」
疑問は氷解した。するとさっき空を飛んでいた天狗は、小天狗の仕事の見回りでもしていたのだろうか。
「いや。いつもの出前よりいいくらいだよ」
「済みませんね! いつもの出前は私でした」
山縣屋の出前はちょっと怒って言う。A さんはこの先の出前への影響を考え
「ごめん! いつもの出前の方が安心出来るわ」
と謝った。
「ありがとうございます。でもねぇ、私も団扇で出前出来りゃ、こんな楽なことはないんですけどね」
「そんなに楽なのか」
「ええ。奴が椅子に座ったまま団扇を仰ぐだけで、丼がすーっと飛んでくんですよ!」
「行き先を見ないでいいのか?」
「それがお客さん! 最初に丼を飛ばした時、部屋を出たところで女将さんの叫び声が聞こえてね、慌てて出て行くと丼にぶつかって額を押さえてる女将さんがいましてね、くっくっく」
出前は可笑しそうに笑った。

(七)

朝倉と学食に入って行くと平井がいた。赤いポロシャツを着て、こちらを見付けて喜んでいる。
「いいところで会った、戸田に朝倉。頼みがあるんだ」
「頼み?」
着物姿の朝倉は周りの生徒に挨拶されながら偉そうに椅子に座る。着物に懐手をしていると貫禄があるように見え、年上と間違えるらしい。最近は侍の演技が混じって来た気がしないでもない。
「実は限定的念力の仕合いを申し込まれて、助っ人を二名連れて来ていいって言うんだが、戸田と朝倉なら侍の日で来てたから、普通の人より仕合いの経験があるだろうと思ってさ」
自分達は普通の人間で仕合いなんか経験したことがない。どうしようかと迷っていると朝倉が問いただした。
「拙者は構わんが。して、相手は?」
侍が板に付いて来て発想も侍になっているみたいだ。仕方ない。
「同じく五級を取得した木下って言うやつで、僕と違って天狗の団扇の念力遣いなんだ」
「天狗の団扇?」
「そんなのがあるんだ」
「あるんだよ。天狗の団扇の力でものを運べる。出前で使われているらしい」
また食べ物か。
「へえ!? それも念力か」
「どんな仕合いなんだい?」
「イタリア料理の出前勝負だ。交互にピッツァを運んで、それに途中でタバスコをかける。かけられたら負けで、かけられなかったら勝ち」
「天狗が相手でござるか?」
「そうでござる。基い、そうだ」
朝倉の侍言葉は伝染するらしい。

どこから聞き付けたのか、駅前商店会会長がやって来て、駅前広場で仕合いをしないかと言った。木下側には既に了解を取ってあると言う。駅前商店会は集客に最適と考えたに違いない。断る理由がないため承諾した。

当日、駅前広場に行くと、タコ焼き、焼きそば、綿あめなどの屋台が立ち並び、貴賓席の簡易テントまで用意されていて、結構な人だ。手前のテーブルはビールに焼き鳥があって爺さん達が既に盛り上がっている。
商店会会長に、我々が限定的念力の仕合いをすると紹介され、拍手と歓声が上がった。相手の木下達は既に来ていた。
「遅かったな、平井」
木下が進みでる。同い年くらいで両脇に二人助っ人を従えていた。
「済みませ〜ん!」
突然、マイクを持ったインタビュワーが寄って来た。女子アナかタレントか。
「今日、駅前広場でお仕合いをされると言うことですが」
「誰だ?」
「○×テレビと言いまして」
「聞いてないな。邪魔だ!」
平井が天狗の団扇でふわっと軽く扇ぐと
「あれ〜!」
と、インタビュワーは風に吹かれて飛んで行って仕舞った。観客はざわめいたが助けに行く者は見当たらない。

改めて向き直った木下が言う。
「まず、俺がこちらのテーブルからそっちのテーブルまでピッツァを飛ばす」
広場の両端に赤いチェックのクロスが掛けられたテーブルが用意されていて、その脇にはピッツァ焼き職人が立っている。
「そっちはタバスコを飛ばして、テーブルにつくまでにかけられればそちらの勝ち。かけられなければこちらの勝ち。タバスコは一回に三本まで使える。次にピッツァとタバスコを交替して同じ仕合いをする。続けてポイントを先取した方が勝ちだ」
「望むところだ」
木下と二人の助っ人は、こちらを睨みつけて広場の端に行った。我々も反対側のテーブルに行く。
「平井。何か策はあるのか?」
「ない。君達は木下や、飛んで来るピッツァに注意しててくれ」
「判った」
注意してるだけでいいのか? 全然、勝てそうな気がしないぞ。

「用意はいいか!」
広場の反対側のテーブルの、大きなマルゲリータピッツァを前にして木下が怒鳴る。平井は手のひらの上でタバスコの壜を浮かせながら答えた。
「いいぞ!」
木下はテーブルの上、大きなピッツァに近寄った。
「独りで食べるつもりだな?」
「違うだろ、朝倉! お腹が空いているのか?」
「ピッツァ一枚くらいなら、だうと言ふこともなし」
木下は天狗の絵の描かれた団扇でピッツァを扇ぐ。するとピッツァはふわりと頭の高さくらいまで浮き上がり、いきなり、しゅん! と、こちらに向かって飛んで来た。
「おおっ!」
観客はどよめいた。余所見をしていて歓声に驚き、ビールを零した爺さんもいる。
平井はピッツァを迎え撃つべく浮き上がらせたタバスコを空中に並べた。ピッツァは平たく飛んでいたが、途中で縦になった。
「平井! ピッツァを見ろ! ピッツァじゃない、チーズを見ろ」
朝倉が叫んだ。出来たてのピッツァが縦になって飛んで来る。溶けたチーズが滴り落ちて…。
「チーズが落ちてない!」
「ピッツァの占める空間の重力系は、ここの重力系と違って、ピッツァの底の方、つまり垂直方向にあるんだ!」
「天狗の団扇は、重力系のコントロールも出来るのか」
「だからチーズが溶けても落ちないんだ!」
「それがどうした!?」
平井は近付いて来るピッツァを見ながら叫ぶ。
「タバスコをかけた時、それがピッツァの重力系になければ、弾かれて仕舞う」
ピッツァの重力系は垂直方向のため、下はこちらから見て左になる。ピッツァの重力系内でタバスコをかけると左に落ちるが、周りの重力系では地面が下だ。当たり前だけど。
「ピッツァのある縦方向の重力系に入らなければ、タバスコは左に落ちて行かずピッツァにかからない」
「どうすればいいんだ!?」
「ピッツァの重力系に入るポイントを見極めろ!」
「ぎりぎりまで引き付けて、ピッツァの重力系に入ってからかけるんだ!」
平井は空中に浮いたタバスコの壜を一列に並べ、こちらのテーブル近くまでひきつけてから順番にピッツァ向かって攻撃を開始した。

しゅーん! ぺっ、ぺっ、ぺっ。

ぎりぎりに近寄ってかけたにも関わらず、タバスコの液は全てピッツァに届く前に弾かれて地面に落ち、タバスコ滴の染みを作った。ピッツァは何事もなかったかのように、ふわりとこちらのテーブルに降りた。
「もっと近付かなければだめだな」
「あれじゃピッツァ重力系に入っていないと言うことか」

広場の反対側で木下が勝ち誇ったように言う。
「俺の勝ちだ。今度はそっちがピッツァを飛ばす番だ」
「判った」
平井は横のテーブルのマルゲリータピッツァを見て、すっと手をかざす。ピッツァがふわりと浮き上がった。
ごくっ。
「うまそうだな」
唾を飲み込んで朝倉が呟く。僕も食べたくなって来た。
ピッツァは空高く上がって行く。
「おおっ!」
どよめく観客。秋の太陽が眩しい。駅ビル二階くらいに上がったピッツァは木下のテーブルに向かって急降下して行った。
「来るぞ!」
木下は天狗の団扇でタバスコを扇ぐ。タバスコの壜は一斉に浮き上がった。
「蓋! 蓋!」
助っ人が慌てて駆け出して、宙に浮いたタバスコの壜の蓋を開けている。
「急げ! 来るぞ!」
蓋を開けた順にタバスコが飛び立って行く。迫るマルゲリータピッツァが急に回転し始めた。

ひゅーん、ひゅん、ひゅん、ひゅん、ひゅん!

ピッツァにタバスコが襲いかかり中身を振りかけるが、一度に二、三滴しか出ない上、回転するピッツァの風に弾かれて仕舞う。
「くそっ!」
タバスコは一滴もかからず、跳ね飛ばされて助っ人の顔にかかった程度で、ピッツァは難なくテーブルに着地した。
「こちらの勝ちだ」
平井が言う。
助っ人はタバスコが付いたほっぺたをピンクのバンダナで拭いた。

「今度は俺だ」
木下はそう言ってテーブルの上のピッツァを天狗の団扇で扇いだ。ふわっと浮き上がるピッツァ。ピッツァが飛び出すのを待たずに、平井はテーブルのタバスコを二壜飛ばす。
「タバスコが来るぞ!」
「急げ!」
木下がピッツァを縦にすると、それに合せるように飛び立ったタバスコの壜が横になり、一つはピッツァの底部側に、もう一つは上部側に位置した。両方とも口をピッツァに向けてタバスコをかける気満々だ。
「何を企んでいるのだ?」
平井はにやっと笑った。ピッツァの上下に位置したタバスコが少しずつ近付いて行く。
「近付いて重力系を超えられるか!?」
「いいぞ!」
「待て!」
木下が叫んだ。
ピッツァは動くのを止め、空中に浮いたままになった。どうしたのかと、観客は全員声を出せずに見守っている。
「限定的念力五級では、二つのオブジェクトを別々に動かせないはずだ! 平井。まさか四級か!?」
「練習中さ」
問いただす木下に対し、平井は事も無げに言って除けた。
「どうする?」
「くそっ! 負けるか!」
ピッツァは広場の端に並ぶ植木鉢に向かって速度を上げた。タバスコもぴったり着いて行く。

がちゃん!

「あっ」
植木鉢ぎりぎりのところを飛んだので、底部側に位置したタバスコの壜が植木鉢に当たって割れて仕舞った。タバスコは上部側の一壜になった。
木下は笑みを浮かべ続けて団扇を扇ぐ。ピッツァは空中でしゅーんと翻り、今度は上部側を植木鉢の方に向けて寄って行った。タバスコの壜はそれを追従して植木鉢に近寄って行く。また割れて仕舞うぞ!
「これでお終いだ」
するとタバスコの壜は、植木鉢にぶつかる寸前、すっとピッツァの上部から水平方向に移動したのだ。タバスコはピッツァを後ろから追いかける形になった。

観客達が全員手に汗を握って見詰める中、ピッツァとタバスコ壜は平行になったまま広場の端を飛ぶ。テーブルが近付いて来た。
「このまま逃げ切れば俺の勝ちだ!」
垂直だったピッツァはくるんと地面と平行になってテーブルに向かった。そして、そのままゴールするかに見えた。
ピッツァがテーブルに乗った!
「木下さん、やった!」
助っ人が言う。
ところがテーブルナプキンの下に隠れていたもう一つのタバスコ壜が現れてピッツァ目掛けて突進したのである。
「あっ!」
タバスコ壜はピッツァの縁に突っ込んだ。いや、ピッツァが突っ込んで来た。

がたん、ぼん、かたかたっ。

テーブル上で止まってピッツァ、前方から突っ込んだタバスコ壜、そして追いかけて来たもう一つのタバスコ壜。
前方のタバスコ壜からはどくどくとピッツァにタバスコが流れ込み、追いかけて来たタバスコ壜は、ピッツァがテーブルの上に乗り重力系が戻ったことで安心して突っ込み、ピッツァにタバスコを振りかけながら上を飛び越えて反対側に転げ落ちた。
「辛そうでござるな」
タバスコだらけになったピッツァを見て朝倉が言う。
「食べて片付けるのは助っ人の仕事だ」
「飛んでいる時から食べたかったのでござる」
朝倉は胸にナプキンを挟み、袖を捲ってピッツァを皿の上に引っ張り上げ、フォークとナイフを手にした。
「朝倉、まだだ。もう一つ仕合いを勝てば優勝だ」
「そうであったか」
朝倉はいい子にして待った。

朝倉と戸田と大勢の観衆が見守る中、平井は先ほどのようにピッツァを浮かせて空高く上らせ、木下のテーブル目掛けて急降下する。木下がタバスコで迎え撃つと、今度はピッツァが縦横自在に向きを変えてタバスコを避けた。
「いいぞ平井。木下の作戦を真似たな」
今度も平井は難なく勝利した。安心した朝倉がピッツァを食べ始めたのは言うまでもない。

(完)

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楠田文人作家

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